2017年11月14日火曜日

柳美里の本をお勧めします。

柳美里著『国家への道順』(河出書房 2017)をお勧めします。
日本人社会の歴史に対する感性、認識の欠如を指摘するのですが、それは自らの経験を基にして、福島への思い、朝鮮半島の分断、戦後の在日の生活実態に、自らの生き方を反映させたものです。何よりも、彼女が対話を重視することに私は共感します。私がメモした部分を紹介します。

福島について
彼女がフクシマ事故以降、彼女が福島に住まないと福島について書けないと家族で移住したことを知りました。

「故郷を追われた彼らの存在が、私の心を占有し、そこに私が身を寄せるのは、おそらくわたしが朝鮮戦争によって故郷を追われ、今も分断されたままの故郷を持つ「在日」だからです。」この感性、行動力、そして彼女の中では必然性がある、この「飛躍」に私は強く、共鳴しました。

対話について
「対話とは何か。
対話によって相手に同調する(相手を同調させる)ことを目指すのだと誤解されがちですが、双方の間の断絶(隔たり)を直視しながら、言葉のやりとりによってその断絶(隔たり)を踏み越えるための共通平面を探り合うーー、それが対話なのではないかと、私は思うのです。」柳美里『国家への道順』(河出書房出版 2017) 98頁。
「もちろん、自己の思想なり立場から一歩も出ないというような頑なな態度を取り続ける限り、対話は成立しません。それは、ただの対立であって、対立からは相手に対する理解は生まれず、侮辱や憎悪を徒らに増長させるだけです。自己から出発して他者に向かうーー、その方向をもちつづけることを基本姿勢としない限り、対話は成立しません。」
「昨今の朝鮮半島情勢に関する日本のマスコミ報道で欠けているのは、その姿勢だと思うのです。」

日本人が知らないこと、知りたくないこと
(朝鮮人特攻隊員、遺族年金がもらえないこと、靖國神社に祀られているBC級戦犯(日人軍人)として絞首刑に処せられたことなど)日本人の大半は朝鮮人の存在を知らないのです。」「知りたくないから知ろうとせず、、知らせたくないから知らせなかった結果なのでしょうが、あまりにも知らな過ぎるーー。」「日本人が知らないこと、知りたくないことを、どうしたら知らせることが出来るのかを、私は考えています。」「どうしたら、目や耳を覆っている手を下ろすことが出来るのかをーー。」

「最悪」に黙従しないために
これは柳美里の最後の章で書かれた最後の文書です。
「「最悪」とは、人間が自己の利益にのみ目を奪われ、他者の悲惨や苦痛に無関心なことだと、わたしはおもいます。」

おわりに
柳美里は、国民国家とは何かを記し、「人」や「人間」を大事にしていく姿勢を「はじめに」と「おわりに」で語ります。
「国民国家(nation-state)とは元々フランス、イギリスなどの西洋近代が生み出した概念で、国民nationとは、単一民族ない同質的集団という前提にに基づいていて、多人種や多民族や他宗教に対する差別や排斥の危険性を内包しています。」
「明治期に欧米文化を輸入したことによって始まった中央集権的な国家主義に終止符を打つことはできないのか。偏狭な愛国主義を、おおらかな郷土愛に戻していくことは出来ないのか。」
「それが実現できれば、他者である在日外国人や他宗教を信奉する人の他性を身近なものとして感じることが出来るのではないかーー。」

もちろん、柳美里は無条件に福島の地域住民に感情移入しようとしているのではないのです。すぐに排外主義に転じる住民がいることもよく知っています。

私見
多くの著名な研究者が言わない、言えないことをどうして彼女はそのハードルを軽々と超えたのでしょうか。それは、彼女が自分の経験から体得した感性を信じ、そこに集中し思索を深め、人と会い、現実を直視し、そこから何らかの行動を起こそうとしてきたからではないのでしょうか。私が彼女に共鳴するのも、私もまた同じような失敗を繰り返しながらも、同じような方向を志ざして歩んできたからだと思います。柳美里のますますの活躍を祈念します。

私ごとですが、彼女が著書で触れているベルリン・オリンピックのマラソン優勝者の孫基禎は、実はボクシングジムのオーナーであった父とは友人で、私は子供のころ彼から可愛がられた経験があるのです。東京オリンピックに私自身は反対ですが、せめて日本のマスコミはまともに彼の歴史を日本社会に紹介してほしいものです。

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