2017年7月21日金曜日

私のライフ・ヒストリーについて

昨日の7月20日午後3時から、横浜国大 加藤千香子教授の主催で、第2回目の「チェスングさんのライフヒストリーを聴く会」がもたれました。質疑応答を終えると6時で、参加してくださった、シベリア抑留を経験され、戦争や軍隊の悲惨さ、問題点を指摘される松本茂雄さんを交えて9時まで歓談しました。次回は8月25日(金)に決定しました。今回の私の話しは、戦後日本の大衆消費生活の発展の中で在日として大阪で生き延び、没落したチェの家族について、話をしました。在特会へのカンターのあり方についても言及しています。

最近とみにSNSで在日が過去誰々を殺しただの、襲撃しただのという情報が目立ちます。今回の在特会のヘイトスピーチ・デモの瞬間芸的なパフォーマンスでも、川崎での誰もが知る殺人事件の犯人は在日だというパネルを掲げ、インターネットで放映したそうです。彼らは韓国の竹島(独島)、日本軍慰安婦の政府間同意の破棄、少女像の設置や反日教育などをとりあげ、奴らは日本の敵だと言いはります。そして北朝鮮での拉致問題、ミサイル・核実験を指摘して同じく敵だと言うのです。敵に対して殺せというのは当たり前、欧米でもかつて日本人を殺せと言っていた、これはヘイトスピーチではない、このような発言を封じ込もうとする(カウンターの)運動こそ、憲法で保証された言論の自由を犯すものだと拙い演説でアジりまくります。結局、この詭弁を中原警察は認め、ヘイトスピーチをしてはだめだよ、はい、しませんとも、ということで街頭デモが許可されたようです。今後もそうでしょう。

7月17日に川崎の韓国教会で、<「格差社会に抗う」、「ヘイトスピーチとの闘い」の講演会>に参加して 、川崎でのヘイトスピーチでの闘いについて神奈川新聞の石橋記者の話を聞き、彼に批判的な意見を述べたばかりでしたので、横国での私の話もそこからはいりました。http://oklos-che.blogspot.com/2017/07/blog-post_20.html

ヘイトスピーチ解消法、公共施設使用禁止、地域制限、ガイドライン、運動で勝ち取ったものは在特会の幼稚な策略で突破されました。申請はわずか700メートル、出発地点から離れたところで20名位でバスで乗り付け、パフォーマンスをやってカウンターの市民が駆けつけたらさっそと帰ったということのようです。在特会を取り囲み動かなくしようとしたカウンターの裏をかいたということなのでしょうか、警察と組んでもめない形で終わらせたということなのでしょうか。在特会と対峙するには、物理的に「しばき合って」でも取り囲みシットインをして路上で動きを封じ込めるということでは限界があり、差別そのものを許さないという法律か条例を作るしかないのです。

しかしその目標を達成するためにも、一体在日が受けている差別とは何か、ヘイトスピーチを生み出す根源的なものを直視し、制度化・構造化され見えなくなっている差別の実態に触れる地道な作業・学習が必要です。何より、戦争責任、植民地支配とは何かという歴史観、哲学的な深い考察が必要不可欠であり、それは日本社会に徹底的に欠けているものです。それは在日という他者を知ることではなく、実は日本社会とはどのような社会なのか、すなわち自分自身を知ることなのでむつかしいのです。根源的な取り組みが必要です。ヘイトスピーチは在特会だけでなく、この日本社会に蔓延してます。在特会にターゲットを絞った運動では限界があります。差別の根は深いのです。‬この点の説明から私の話ははじまりました。幸い、みなさん、しっかりと理解されたようです。

ヘイトスピーチ・デモが当事者にもたらす弊害は実は精神的にも大きなものがあります(「福田紀彦 川崎市長への公開書簡」より。http://oklos-che.blogspot.jp/2017/07/blog-post_13.html)。しかし私たちは7月19日の川崎教会での講演会のあと、近くの焼鳥屋に入ったら、そこは40年前の保育園園児だった在日のSがやっている店でした。オモニ(母親)も顔を出してくれました。その後、長男のKがやっている店に行ったところ休みだったので、もう一軒、園児だったYのオモニの店に行きました。そこでなつかしい他のオモニを呼んでくれたので、40年ぶりに楽しい酒盛りと話がはじまりました。彼らはしたたかに生きている、というのが私の実感です。そして私の両親も実にしたたかに生きてきたのです。そして私も、私の子供も孫もそう生きるでしょう。そのしたたかさを在特会の連中は知らないでしょう、想像もつかないでしょう。今度彼女たちと8月に私の妻(桜本保育園の始まりの時から保母として勤めていた、そして今でも70歳を前にして保母として働く、その彼女の優しさのことを子供もオモニも忘れていなかったのです)を連れてみんなで会おうということになりました。楽しみです。

私の家族の話は、実はいかにしたたかに彼らは生きてきたのかということにつきます。父はとんでもない、独りよがりな男です。私の彼への思いはブログで書きました。両親への私の思いは下の2つの書き物を読んでくだされば、もうそれ以上、私には言うべきことも書くべきこともありません。

「在日」の世界ー力道山と親父」 http://oklos-che.blogspot.jp/2013/01/blog-post_25.html
そして92歳になった、父や私たちを捨てて家を出た母のことも書きました。
90歳のママに乾杯!」 http://oklos-che.blogspot.jp/2017/05/90.html

加藤教授はわざわざ、『拳の漂流―「神様」と呼ばれた男ベビー・ゴステロの生涯』(城島充 講談社)の一部の、私の父親に触れた部分をコピーしてくださいました。戦前から戦後にかけて活躍したフィリピン選手のベビー・ゴステロをスカウトしてプロデュースしたのが、ボクシングクラブのオーナー(会長)であった父です。力道山の谷町でした。占領時代にカレーライスで当て、心斎橋の超一等地でレストランとジャズ・クラブをはじめました。女性関係も派手であったようです。それが今をときめく吉本興業と争いそこを出ていくことになりました。その時に、母も子供二人を置いて出ていきました。その後、難波の高島屋のすぐ側の2階建ての家に住むのですが、父は何十年もかけて毎日釜ヶ崎から人夫を連れてきて専門家を入れないで陣頭指揮して地下1階、地上8階の、史上最悪のビルを建てました。

その後2回結婚しますが、最初の妻(私たちの母)を忘れることができずにいました。何とも独りよがりで、身勝手な男です。書き始めるといろんなエピソードだけでこの報告は終えないといけません。母はいまでも90歳にはとても見えない小柄な美人です。20代でどうして心斎橋で多くの人を使い店をやっていったのでしょうか。その後は、本町で喫茶店を成功させ、元商社マンの日本人と結婚しました。彼女には私たち以外には子供はいません。料理が得意ではやく、とても美味しく作ります。日本の着物を自分で作って着てみたいと習いはじめ、最終的には何人もの歌手の着物を作ったそうです。あまりに集中してはげしくやったせいでしょうか、左手の針をあてがう部分が今でも曲がったままです。その母親の親孝行をしようとアメリカの弟と相談して、私は週に1回は大阪の彼女の家で泊まっています。炊事洗濯なんでも自分でやり、ヘルパーさんが来るときには特に念入りに掃除をしています。週2回は地域のおばさんたちとカラオケの店に行きます。過去のことには一切触れず、偉そうにせず、聞き上手なお袋は地域でも人気者です。

心斎橋の一等地を出て住んだ難波の家も、バブルのときには坪1億円したといいますから、それなりに父は財産を残したことになります。長男である私を愛し、私は彼から一度も叱られたことがないのです。その私が親の仕事を手伝わず、大学から東京に出て、韓国教会に行きはじめ(きっかけは父親のすすめで夏の修養会に行ったことでした)、自分は何者か、在日とは何なのか、私は必死になって自分の生き方を模索しました。そして日立闘争に出合い、地域活動に没頭するのです。

地域で上に記したオモニたち、ボランテイアの青年たちと一緒になって私は川崎市の国籍条項の撤廃を求める運動をはじめました。外国人だというので金を貸さなかった銀行、会員にさせなかったカード会社、保育園をでた子どもたちを相手に作った桜本学園などなど、思い出はつきません。しかしその期間は今思うとわずか2年足らずであったようです。あまりに充実したときであったので、40年ぶりに会ったオモニたちとも楽しい思いで話に花が咲くのです。

しかし義理の父の思いがけない死によって、私は主事を辞め、義理がやっていたスクラップ(鉄屑)の仕事を継ぎました。それから布団の行商、ぬいぐるみの製造、貿易会社、レストランなどなどを手がけ、私は必死になってビジネスに励みました。しかしその成功が仇になり、私は大阪の家も、川崎の妻の実家、私たちの家もすべて手放すことになりました。義理の母と妻はその私を一度も責めませんでした。世の中には不思議なことがあるもので、川崎の家を競売で買い取った不動産屋さんに会いに行き、私は自分がやってきたこと、義理の母がその私を支えてくれたこと、だから、競売で手放したその家でそのまま家賃を払うかから、義理の母が召されるまで住ませてほしいと頼み込んだのです。なんと彼はそれを一度も会ったことのない、競売で自分の財産を全て手放した男の願いを聞き入れてくれましたのです!母はそこで死ぬまで住むことになりました。

すべてを失った私は、すべてを捨ててイエスの十字架に従うという恵まれた経験をするようになりました。3・11直後のことです。私はフクシマ事故を起こした原発メーカーの日立、東芝、GEを相手に訴訟をおこすことを提案し、4000名の原告を世界から集め、今、高裁で闘っています。反核平和を掲げ、日韓反核平和連帯という組織をつくり、韓国の市民キャンドル革命から学び、多くの友人とともに、来月には、韓国のヒロシマと呼ばれている被ばく者が多く居住する峡川(ハプチョン)で、被ばく者たちがヒロシマ・ナガサキでの原爆投下はアメリカ政府に責任があるという裁判をはじめるために国際フォーラムに参加します。原爆投下は仕方がなかったという世界の常識への挑戦がはじまるのです。

フクシマ事故にもかかわらず日本は原爆の再稼働を進める方針です。私の国籍は天にある、在日であることからいかなる民族、国籍、国家を絶対視することなく歩めることになった私はなんと幸せものでしょうか。あんたはかねもうけは下手やけど、小さいときから口は達者やったな、賢かったし。母の口癖です。健康ですが、おなじことを口にし、物忘れが激しくなった母親にしっかりと親孝行したいと思っています。

世界から核兵器、原子力発電をなくし、いかなる差別、抑圧もない世界を目指して進んでいく、このような目標に邁進できることに私は心から感謝しています。この個性的でたくましい母親、父親があって私があります。私の背中をまた私たちの子どもや孫たちは見ていくことでしょう。こんなワガママで好き放題のことをやってきた私を支えてきてくれた(捨てないで受け止めてくれた?)妻に感謝、です。











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