2017年7月20日木曜日

公開の討論を望みます。「格差社会に抗う」、「ヘイトスピーチとの闘い」の講演会に参加して

7月17日、在日大韓キリスト川崎教会で、渡辺牧師と神奈川新聞の石橋学記者の川崎でのヘイトスピーチに関する発題がありました。

渡辺さんのお話は「全ての上におられるキリスト-格差社会に抗って」という題目で、教会の憲法・原理がいかに市民社会での原理になるのかという、宗教改革500年を迎えて、その本質を問うものでした。全ての上におられるキリストという教会の原理は、市民社会においては、いかなるものをも絶対化しないということであり、国家、国籍、民族さえをも絶対化しないということは今まさに、市民社会において問われていることだと思いました。
石橋学記者は川崎でのヘイトスピーチとの戦いの歴史を記者の立場から話されました。国政レベルでヘイトスピーチ解消法が施行された歴史、在特会のあくどくしつこいヘイトデモへのこだわり、それとのカウンターの闘いが具体的に話されました。しかし結論は、それでも在特会は言論の自由を建前にヘイトスピーチデモを敢行し、市民運動は止めることができなかったということでした。
なぜか、差別そのものを罰し、禁じる法がないからです。公共施設の使用禁止、桜本など一定の地域の立ち入り禁止、ガイドラインの作成などでは在特会の差別行為を禁じることはできないということがあきらかになりました。

石橋さんの記者としての活躍、在日の闘いなどに参加者は皆感動しましたが、私は敢えて石橋さんの報告を批判しました。それはいかなる意味においても市民の在特会との闘いを過小評価するものではありません。
差別の実態を知っているのか、公権力を含めて、見えなくされてきた、制度化された差別の実態をわかっているのか、朝日より、神奈川新聞の方がよくやっているというレベルのはなしではなく、植民地支配の歴史、実態も全くと言っていいほど知らされていないにもかかわらず、またさらに北朝鮮への圧倒的な敵視政策の影響下にある日本社会の右傾化の中で、戦後の日本は平和と民主主義社会であったとされていることの違和感、このどうしようもない日本社会の中で発生したヘイトスピーチデモ。この根は深いのです。一人、在特会だけを敵対視し、ヘイトスピーチを押さえ込むという発想の運動で済むのかというもどかしさです

横浜国大の加藤教授と話しましたが、在特会リーダーの話す朝鮮人を敵対視する話に納得する学生は多いだろうということでした。竹島(独島)を占領し、反日運動を展開し、慰安婦問題合意を破棄しようとする韓国はけしからん、ミサイルと核実験を繰り返し、日本を攻撃するという北朝鮮は敵だ、その敵を殺せというのは戦争中、欧米も日本に対して言ってきたではないか。それはヘイトスピーチではない、敵に対する当たり前の言葉だ、それを止めさせようというカウンターこそ言論弾圧であり、言論の自由の制限だ。この在特会の低劣なアジ演説はまさに日本のマスコミを通して浸透していっている内容ではないか。私が日本の右傾化という所以です。しかし加藤教授はそれは右傾化ではない、自分自身で考えようとせず、自分に有利な権力に寄り付こうとする自分の考えのない生き方を反映させている、という意見でした。私はそれもそうだなと思いました。

それほど事態は深刻です。だからこそ、差別の実態を直視して粘り強く闘わなければならないのです。カウンター側は差別の実態を知り変革していこうとしているのか。石橋さんは公権力の差別の実態を認め、それと取り組むことの必要性を認めました。
私たちは握手をして別れました。これから意見の交換をしながら一緒にやっていけるでしよう。

石橋さん、川崎に結集したカウンターの皆さんとの対話を望みます。みなさんは石橋さんが認められたように、公権力の差別、制度化され見えなくされた差別を直視しようとしていますか。また、差別と闘わない「多文化共生」はありえないという石橋さんの言葉の重みを、その実態を理解されていますか。「多文化共生」は戦前の満州でとられた「五族協和」とおなじイデオロギーです。運動側も権力側も同じく「多文化共生」を掲げるのって、おかしくないでしょうか。在特会と同じレベルで「しばき合っても」構造化された、植民地支配の残滓である見えない差別はびくともしないのです。在特会を「しばく」からと言って、在日朝鮮人を理解しているとか、「味方」だと言えるとお考えですか。この点の議論は不可欠です。公開の討論を望みます。

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