2017年1月5日木曜日

私の在日朝鮮人としての歩み

この講演録は昨年の1212日、横浜国立大学の加藤千香子教授ゼミの修士、博士課程の研究者を対象に私が話した内容です。毎年のように加藤ゼミで話す機会をいただき、今回このような形で公表できることを加藤教授、ゼミの研究者のみなさんに感謝申し上げます。私個人の在日としての歩みですが、年内に実施される韓国の大統領選を前にして、在日がそれに参加して歴史の大きなうねりに関わる主体であることを明らかにすることに意味があると判断いたしました。

                        私の在日朝鮮人としての歩み
                                                              崔 勝久

僕は、大学の頃からずっと在日朝鮮人の人権の問題を一生懸命考えてきました。いま読んでみると、大学生の頃に書いたのがいちばん尖っていて面白いなと思うくらい、いろいろと書いてきました。僕は今年71になりますが、僕自身一か所に留まっていたわけではありません。20歳くらいから、在日朝鮮人は何かとか、本名は何かとか、どう生きたらいいかとか、差別は何か、といったことを一生懸命考えてきて、そして目の前の運動があって、そこで闘ってきて、闘いの中で学んで書いて、ということを50年間やってきました。だんだん、僕自身が変わってきたなということを感じています。
とくに一番僕にとって大きいと思っているのは、かつては「在日朝鮮人」の枠というものを自分で考えて、自分は在日朝鮮人でしかない、というふうにずっと思い込んでいました。在日朝鮮人のことは、日本人はわからない、韓国の人もわからない、在日しかわからない、そういう特質的なものであると考えていたのです。けれども今、僕はそれがだんだん溶けてきていると思うようになりました。よいか悪いかというよりも、そうなってきていているということです。

香港の孫の生き方
先ほどジョージアの人が5か国語できるという話をされていましたけれど、僕の孫は今18歳で香港にいますが、5か国語が堪能です。まず韓国籍で日本の永住権を持っている、また香港の永住権も持っている。ネイティヴ・ランゲージ(母国語)は何かといったら、おそらく広東語(カントニーズ)でしょう。韓国と日本語は非常に上手です。英語もよくできます。その彼が持っている、感じている国家観とか民族観は、僕とは全然違うなと思います。それは環境が違うから。僕は最近変わってきたという話をしましたけれど、むしろ彼が正常なんじゃないかという気がするのです。

みなさんお読みになったかわかりませんけど、僕も加藤さんも非常に影響を受けた学者が西川長夫です。これは是非皆さん、読んでください。西川長夫の植民地観と彼の国民国家批判、これは基本、僕らのベースになります。その上で考えると、僕が在日朝鮮人だ、ということはどういうことになるのか? 在日朝鮮人は、国民国家という仕組みのなかで辺境にある。だから、日本人でもない、朝鮮人でもない。国籍は韓国だけど、韓国のことはそこまでわからないし、日本人のこともわからない、という風に思っていました。だけど、僕はそういう考え方でなくて、僕らほど両方わかっている人はいないだろう、と考えればいいと思うようになっています。だから、孫のようになれればいいなと思っています。

彼は、香港の現地の学校に行っているから、カントニーズがネイティヴ・ランゲージ(母国語)です。そこで韓国人だということを別に隠すわけじゃなく、学校に通いながら普通に友達とお付き合いをしているのだけれど、地域のおばさんたちは、「あの子、外国人なんだって」という話をするわけです。そうしたら、つかつかと行って「ぼくは韓国人だけど、何か問題ありますか?」ということを言える子なんです。彼の親父――僕の長男――は、毎日のように中国と香港を行ったり来たりしていますから、息子が香港で生きなきゃいけない理由は何もない。中国の大学に行くかもわからないし、アメリカに行くかもわからないし、日本か韓国に行くかもわからない。それは自分で決めて親と相談するでしょう。人間というのは、僕は、そもそもそんなもんじゃないかなと思うのです。

「被害者意識としての民族主義」
それはどういう意味かというと…… 僕ら在日朝鮮人は、あまりにも歴史の歪んだところにいたので、日本の国民国家の問題性だとか歪みだとかに焦点を当ててきた。特に日本の植民地主義の問題とか、今の日本の制度の問題とか、日本には「当然の法理」があるとか。外国人が地方公務員になれないという法律はないにもかかわらず、そんなことさえ僕らの時には考えも及ばなかった。ぼくはICU(国際基督教大学)で英語と社会科の中学と高校の免許を取ったんです。それは、しょうがないから先生でもなるかな、大学でても会社に入れないからって思ったからです。「朝鮮人」という枠は、歪められた歴史のなかで出てきたものだから、僕も朝鮮人であることを逃げてきた。しかしそれは、実は、歴史の歪みの反映だということに、僕は20代の頃に気がついたのです。

僕は、20代の頃の論文で、「民族主義」というのは三つある、と書きました。一つは、「素朴な民族主義」。ナイーブな、自然があり、山があり、川があり…、何も言わなくても、そこで生まれ育って、言葉が出来て、という自然な、「素朴な民族主義」。二つ目は、国民国家の国民としての民族意識、これは朝鮮人にとっては戦後のものといってもいいでしょう。日本では明治以降、国民国家として民衆の国民化を進めていくわけですが、それに従って日本は日本人のものだとか、富国強兵のために他国に侵略することはいいことだとか、朝鮮人を日本人化することはいいことだとかと言い始めます。そういうなかで作られたのが、「国民国家としての民族意識」です。現代でいうと、自分は日本生まれでないけれど大韓民国の「国民」だとか、あるいは朝鮮民主主義人民共和国の「国民」だとか、そういうことに自分のプライドを持つ、そういう民族意識、「国民国家としての民族意識」です。

しかしそれら二つの民族主義に対して僕は自分のことを、「被害者意識としての民族意識」として捉えたのです。これは、サルトルがユダヤ人のことを書いているのを大学の時に読んでヒントにしたのですが。ユダヤ人の言葉が分かるわけじゃない、歴史も知らない。だけど、周りが「ユダヤ人である」と差別するから、その中で「ユダヤ人である」という認識を持ってきたという。それは「被害者意識としての民族意識」で、僕らにとってそれは朝鮮人のことでもあったのです。勉強はよくできてなにかやっているようだけれども、自分のことは言えない、それが自分の姿でした。高校を出て大学に初めて「チェ」という名前で入りました。だけど、ちゃんと「チェ」っていう名前かどうかさえわからない。「崔(サイ)」ってのは、自分ではわかっていました。ICUでも、サイくん、サイくんと呼ばれていました。

「被害者意識としての民族意識」、差別されている朝鮮人、そういう存在として自己認識をして、それを民族意識として持つようになる。そこから、歴史を勉強し、言葉を勉強するという過程が出てくる。僕の世代――65から75歳くらいの在日朝鮮人の学者だとか、活動家だとかは、基本的に同じパターンです。大学に入って、韓国系のグループに入る、あるいは、北朝鮮系のグループに入る。ということのなかで、自分のアイデンティティをその中で求めていく。だから、「被害者意識としての民族意識」のうえに、プラスアルファとして、「国民国家としての民族意識」を自分の中に入れようとする。そこから何が出てくるかというと、自分のやるべきこと、在日朝鮮人の主体性は、韓国の民主化闘争にコミットすることだとか、あるいは北朝鮮の祖国に奉仕することだとか、統一朝鮮に何かやることが在日朝鮮人としての主体性だとか、と考えて自分で生き方を模索するということでした。

韓国語は、学んだ言葉だから当然下手です。僕は韓国に行って自分の言いたいことはだいたい韓国語で言えますし議論も出来ますが、飲み屋に行ったらお姉ちゃんから一発で言われますよ、ちょっと言葉がおかしいって。まあ当たり前です。でもよく考えてみると、それが何なの? それがどうしたの? ということです。僕が今そう思うようになってきているのは、開き直るのではなくて、人間観とか民族観とかのイメージが、「在日朝鮮人」でしかない――「自分は何々で何何だ」という――自己規定が、それを越えて大きくなってきたからだと思います。自分を規定している民族とか国民国家とかというものは確かにあるのだけれども、僕の生き方は、それに規定されているわけではない。そういうことが、僕の中ではっきりしてきた。それはどうしてかというと、僕がやろうとしている使命というか、そのイメージがさらに大きくなったからではないか、と思っています。それの典型的な例は、後で述べます。

韓国留学での経験
「在日朝鮮人」というのは、僕は「被害者意識としての民族意識」だと言ってきましたが、それは、韓国が本物の民族だと思ったからです。あそこが本物だと。だから僕は――日立闘争のさなかで結婚しましたけれど――、結婚してすぐ韓国に留学に行ったのです。奥さんは遅れて来たのですが、彼女も韓国の保育園で働きながら、韓国語はもともとできる人だから歌や何かを覚えて、それを僕らがやっていた川崎の桜本保育園に持ち帰って、子どもに韓国の歌を教えるとか、遊戯を教えるといったことをやった。僕らの教会の礼拝堂でやっていた保育園――当時は社会福祉法人ではなかったのですが――には、日本人も朝鮮人も入っていて、その子どもたちに朝鮮語の歌を教える、一緒に劇をする、それから朝鮮の子どもは本名を名乗る、そういうことをはじめたのです。僕らはそれを見ると、親以上に感動するわけです。子どもたちがクリスマスでオペレッタを朝鮮語でやる、こんな感動はない、というくらい感動しました。しかし、それをいま振り返ってみると、僕らのやりたいこと、思ってきたことを、子どもたちに強いてきたのじゃないか、と思います。建前はあります。「抑圧されてきた人が立ち直るために、本名を取り戻す」とか。だけども、それは僕らの価値観の反映じゃなかったのか、本当に子どもにとって必要な教育だったのかどうか。そういうことの検証を、僕らはしたことがないんです。当時の僕らは、韓国が本物だと思っていましたから。

留学中は、結婚していましたし、お金もないしで、1年間のつもりだったけれど、言葉を勉強すると面白いんですね。1年しかないから、現地で「在日」となんて一切付き合いません。言葉を学ぶことに徹底していましたから。韓国の学生に会って話をする、韓国のバスの中で会った物売りする人と話をする。すると、だんだん自分の表現が増えてくる。最初5分くらいしか言えないのが、101530分くらい。そういうことを毎日やっていました。風呂屋に行ってそこのお兄さんと親しくなる、バスで会った物売りの人と親しくなって家に呼ばれるとか、そういう風にしてやっていましたから、だんだん言葉が上手になる。それで覚えた韓国語で1年やって、もっと勉強したいと思ったものだから、ソウル大学の大学院に入ったんです。歴史学科。それが日立闘争とも結びつくのですが。

大学院の授業では、すごいことを知りました。留学する前にすでに、在日朝鮮人としての民族意識である「被害者意識としての民族意識」、それは歪められた歴史だ、というところまではわかっていたんです。植民地主義史観が日本の中では当たり前で、その中で育った僕たちは、植民地主義史観というのは歪んでいるわけだからその歪みのために被害者意識をもったのだ、という風に認識していた。だから韓国語を勉強して、向こうは本物だから、できるだけたくさん学びたい、と僕は思っていたのです。

ところが、大学院の歴史の先生が言ったのは、今の韓国の歴史学の現状は、日帝時代の歴史学の水準に比べると話にならないくらい低い、ということです。史料が圧倒的に少ない、研究者の数が十分の一に足りない。まず日帝時代――36年の日帝時代――に朝鮮人の自立的な発展を拒むことを日本が全部やってきたわけだから、朝鮮は一切自立的な発展が出来ない状態になっていた。そこで、突然解放を迎えて独立した。闘って独立したわけじゃない。その後、また朝鮮戦争です。殺し合い。そういう歴史を経て皆さんがいるんですよ、だから、皆さんがやらなきゃならない課題はものすごく大きな課題です。韓国は日帝時代になる前の李朝の末期の水準まで至っていないのです、と先生は言うのです。僕はそれを聞いて、ああ、在日朝鮮人の歪められた民族観というのは、僕らだけの課題ではなくて、日帝から植民地から解放されたけども、実は朝鮮民族というものの課題なんだ、日本にいて僕らは日本の植民地主義のもとでの日本の差別の問題しか頭になかったから、本名やなんだかんだとばっかり言っていたんだけれども、それは実は、日本の朝鮮人だけの問題じゃなくて、在日含めて朝鮮民族というものが克服しなきゃならない課題だ、ということをその時わかったのです。

人権は法律より重要
そこまで僕はわかって、帰ってきてから日本で日立闘争をやり、地域活動をやるなかで考えるようになりました。「国籍条項」という問題があります。さっきの授業で学部の学生に話をしてその感想文がありますが、僕が話した中で、「人権は法律よりも重要だ」と言ったことがずいぶん印象に残っているようでした。それはなにかというと、川崎で地域活動をやっている時、それまで僕らは日立闘争含め、銀行の問題含め、直接的な差別に対する闘いに関心があったのだけれど、地域のお母さん方から、児童手当もらえない、年金もらえない、川崎市の市営住宅に入れないのはなぜか? 法律は「日本人に限る」となっているけど、チェさん、これは差別じゃないんですか? と言われた。そこでドキッとしたわけです。それから、川崎市との行政闘争、いわゆる国籍条項の闘いがはじまった。国籍条項つまり日本人じゃなきゃだめだという法律があるときに、法律があるから駄目だと思うのではなく、一緒の地域に住んでいるのに、児童手当もらえないとか、年金もらえないとか、それは法律がおかしいじゃないか、という考え方に立つようになりました。そうして川崎市と行政闘争をはじめたのです。そして川崎市はそれを呑んだ。法律は日本人に限るとなっているのに、児童手当は外国人にも払います、ということを市長が言ったのです。それが、全国に広がっていって、最終的には法律が変わった。

原発メーカー訴訟
ちょっと話が飛びますけど、僕らはそういう経験をしているから、3.11の福島の事故の後に、原発メーカー訴訟をはじめることができたと思います。その時はみんな東電が悪いと思っていた。ところが、原発を作ったメーカーの責任はどうなるんだ、と。日本にはPL法という法律があります。product liability という。これは、製造者責任といって、物を作ったらそれが壊れた時には文句なく物を作った会社の責任となる、そういう法律があるんです。そのPL法という法律があるわけだから、原発を作った責任はどうなるんだ、と。ところが、日本には原子力損害賠償法――原賠法という法律があって、メーカーの責任は問わないと書いてある。弁護士含め日本の活動家は、法律がそう言っているのだからメーカーの責任を問う裁判なんてできるわけない、やったってすぐ負けるんじゃないか、みんなそういう反応でした。東京で20万人の再稼働反対デモをやった時も、彼らが一貫してやったのは「再稼働反対」だけ。「原発輸出反対」はスローガンにできなかったのです。僕らにしてみれば、それでいいのか、日本で再稼働してはいけない危ないものをなんで輸出するんだ、向こうの人への責任はどうなるのかと思いましたが。

これは、江戸時代にアメリカが来て不平等条約を日本に結ばせた後、今度は日本が台湾と朝鮮に行って同じことをやった、それと同じパターンです。日本にGEの原発輸出するに際して、アメリカは日本に原賠法を作らせた。事故が起こっても、メーカーに責任がないという法律を日本がつくった。同じことを日本は、海外に輸出するときにその国に対してする。全部、原賠法を作らせて、日本のメーカーには責任がない形にしている。これは調べてみてください。中国でもそうなっていると思います。台湾、韓国がそうなっていることも、それらの国の活動家は知らなかった、僕らが運動をして記者会見をやるなかで、初めて台湾の活動家、韓国の活動家も、そういう法律があるということが分かったのです。全世界でそうなっているんです。これは何かというと、NPT体制――核不拡散条約体制のためです。五か国だけが、ニュークリア・ウェポン(核兵器)を持って良い、他の国は持っちゃだめですよ、という体制を作っておいて、あなたたちはニュークリア・ウェポンを作らないという誓約をしなさい、その代り原発は輸出してあげますよ、というのがNPT体制をつくったアメリカがやったことです。

そういうことが、僕らにだんだんわかってくる。今のことを念頭に置いたときに何が出てくるかというと、原発で事故を起こしても、メーカーには責任がないという法律があるから責任を問うのはダメだと言われたとしても、僕らは、法律が何であれ人権が先でしょ、悪いことは悪いということで法律を変えればいいじゃないか、と考えるわけです。これを聞いたら皆さんは当たり前と思うかもしれないけれど、発想の転換なのです。

僕がこの話をアメリカですると、ここで拍手が起こるんですよ。福島の事故の後、ロナルド・レーガン号というアメリカの軍艦がトモダチ作戦で福島に行き、そこで5000人の乗組員のうちの250名が被爆し、そのうち5名がなくなっています。その裁判をアメリカでやっています。莫大な賠償金です。原告は250名の乗組員ですが、被告は誰かというと原発メーカーです。日立、東芝、GEです。僕らの裁判と被告が同じなので、そのアメリカの裁判の主任弁護士に会いに行きました。その主任弁護士の講演の時に僕も話をしましたが、そこで今言った原賠法の話をして、日本では法律的にメーカーに責任はないと言っている、だけども僕らは在日朝鮮人としての経験があるから――人権の方が法律より優位、重要なんだということを僕らは経験しているのだから――裁判をやっている。こういう裁判をはじめたのは、自分が日本生まれの在日朝鮮人だから…Because I’m a Korean born in Japanという話をしたら、スタンディング・オベーションでした。アメリカのロナルド・レーガン号の裁判の黒人の弁護士も、自分の講演の場なのに、もう一回僕を立たせて、みなさん、もう一回チェさんに拍手をしましょうと。それくらい彼らにとって僕の話はよくわかるみたいです。

だんだん僕は、在日朝鮮人だから、本名が何だとか、歪んだ民族意識があったからとか、日本が歪んでいるからとか、そういうことは大したことないな、と思うようになりました。大したことないというのは、意味がないということじゃないです、それがもう世界的に当たり前になっているということです。僕らが始めた原発メーカー訴訟は、原告を世界39か国から4000名を集めました。メーカーに責任があるという裁判は、世界で初めてです。なおかつ、日本の東京地裁で、外国人が1500名の原告になった裁判はありません。(朴鐘碩:2500名ね。日本人は1500)そうだっけ、反対だ。2500名の外国人が原告になった裁判は、日本の裁判史上ない。メーカーを相手にした裁判も、世界で初めて。こういうことを僕が始めたのは、僕が在日韓国人だからですよ、と言いたい。法律なんてものよりも人権の方が大切なのは当たり前じゃないか、というのを、僕らはひねくりまわさずともわかっていたのだから。日本の人はこれが分からない。

日韓/韓日反核平和連帯
韓国で今回、何をやるかというと、日韓/韓日反核平和連帯。この会を僕らは、今年の8月に作ったのです。第1回目の会は、陜川ハプチョン)という「韓国のヒロシマ」と言われている韓国内で被爆者が一番多いところで行いました。陜川では、86日に毎年慰霊祭があります。どうして韓国に被爆者が多いかとかというと、広島・長崎ではだいたい70万人が被爆しましたが、その1割、7万人が朝鮮人です。そしてそのうちの4万人が死んでいます。7万人被爆して4万人が死んでいるというのは、ものすごい高い死亡率です。これはなぜか。被爆して路上で倒れたりするでしょ? 痛いじゃないですか、水が欲しいでしょ、おなかすいたらご飯ほしいでしょ。これを当時の人は朝鮮語でいうわけです。労働者として連れてこられて働かされているわけだから。しかし、朝鮮人とわかると病院に連れていってもらえない、水をもらえない。そうして、たくさん死んだわけです。この事実が日本で明らかになっていない。

関東大震災はもう少し前の話です。地震がおこったときに、6000人の朝鮮人を、毒を入れたというウソを警察が流して、それを信じた人々が殺したという事実、その歴史と、今言った広島長崎の朝鮮人被爆者の歴史とは重なるわけです。これが、植民地主義です。一緒の地域に住んでいるのに、この人たちを殺してもいいと思うのは何なのか、殺しても仕方がない、殺すことがいいことだ、と思うから殺すわけでしょ、危ないと思うとか。これが、植民地主義ですよ。この植民地主義を越えるという課題、問題は簡単です。まさに僕らが経験したからこそ、韓国にとっても日本にとっても、そういう運動をしなきゃならない、と先頭になってできる。だから、この会、日韓/韓日反核平和連帯を僕らがつくりました。

陜川には日本から20名くらい連れて一緒に行きました。現地では慰霊祭があって、いろんな催し物がありました。会場に被爆したおじいさんおばあさんがいっぱいいるのですが、その前で司会しているアナウンサーが最後に、「皆さん胸に手を当ててください」と言うのです。被爆者のおじいさんおばあさんに。そして何を言ったかというと、「自分はよくやってきた、よく生きてきたと、自分のことをほめてあげてください」と。これはなんということはないのですけども、僕にとって救われる言葉でした。そのようなことは、真鍋祐子さんの本(『自閉症者の魂の軌跡――東アジアの「余白」を生きる』)にも出てきます。彼女が一番苦しかった時、自殺を考えた時に、巫女の言葉の的確さに救われたといいます。普通だったら学者だから、巫女が先祖の声が聞こえてきておじいさんおばあさんがこう言っていますなんて、そんな迷信的なものを信じない、とぼくも思ったけれども、真鍋さんはそれで生き返った、助かったという風に書いています。僕は、陜川で、被爆者に司会者が「みなさん、自分がよく生きてきたといってください、胸に手を当てて」と言った言葉を聞いたとき、被爆者への慰めの言葉というだけでなく、僕への言葉だと思いました。

実は、僕には義理の父がいます。奥さんのお父さんですが、彼が陜川出身なんです。被爆者ではないのですけど。彼は、日本に来て子どもを育てるためにあらゆる苦労をしてきました。スクラップを集める商売をして、子どもを育ててきたわけです。彼は、1970年代に僕が川崎で青丘社の運動をして、国籍条項の闘いをして全国に運動を広げるという、在日朝鮮人の運動の絶好調の時期――僕はその責任者みたいな形でした――、日立も勝った、国籍条項も勝った、これを全国に広げる運動もしている、という僕が絶好調なときに、亡くなったんです。その意味を僕はなかなか理解できなかった。僕らが日立闘争をやっているとき、彼にしたら、わけのわからないことをやっているみたいだが、日本の最大企業の日立に勝てるわけない、と思っていたようです。それが、朴がNHK7時のニュースに出て日立の正門にいるのを見て、びっくりしていましたよ。「そうか、おまえはこういうことをやっているのか」と。その義理の親父が亡くなったことを受けとめるのに、僕にはものすごい時間がかかりました。その後僕は、在日韓国教会のRAIKという研究所の主事を止めて、義理の親父と同じ商売したのです。毎朝45時に起きてスクラップを取りに行くという生活を、僕は何年もやりました。そういうなかで、どれだけスクラップの仕事が大変か――スクラップの仕事は、労働が大変なだけじゃなくてお金のやり取りが大変なんです――僕は身にしみてわかりました。

そういうことを含めて、陜川の慰霊祭の催しで、被爆したおじいさんおばあさんに司会者が、「よくあなたたちはよく生きてきたと自分に言ってください」――韓国語で「チャルヘッソ」っていうんですが――と言った言葉が、僕にとっては救いになりました。それは親父に対する言葉でもあり、僕もたいしたことやってないのだけど自分が家を守るためにやってきたことがすべて報われた、僕がやってきたことはこれでよかった、ということでもありました。被爆の問題と、義理の親父の問題がひとつになって、僕の中では氷解したのです。よくわかった。それが、植民地主義に対する闘いだった、この50年間求めてきたことがそれでよかったんだ、と。被爆者に対する言葉が、僕の中にもすっと入ってきた。

その時にソウルで、韓国の仲間と一緒に作ったのが、この日韓/韓日反核平和連帯です。第2回目は福岡で行いました。福岡宣言をよく読んでみてください。アクションプランが4つ、すごく具体的に書かれています。簡単に言うと、1つは、韓国の被爆者は、原爆の投下の責任がアメリカ政府にあるという裁判を起こそうとしています。それは大変なことです。アメリカ人の弁護士を雇わなきゃならない、お金がかかる、それを我々は全面的にバックアップする。第2は、東芝の原発メーカーの責任を、裁判だけでなく、不買運動、投資引き上げ、制裁を全世界的にやりましょうというものです。その為に、日本でワークショップを来年の3月中旬にやります。第3は、我々の今やっている、原発メーカー訴訟です。4番目は、世界的な叡知を集めて、反核平和の憲章をつくるということ。その4つをアクションプランとして出したのです。
その上で、今の韓国の事態を前にしてつくったのが、これ(「韓国で蜂起した民衆への支持と国際連帯の声明」2016121日)です。日本の責任者の木村公一牧師と韓国の責任者の柳時京神父がいて、僕が日本韓国の統合の事務局長になっています。

現在の韓国の事態とは?
民衆のデモが朴槿恵大統領を辞任に追い込む今の韓国の事態はいったい何なんだ?と考えたときに、川崎の朝日新聞の元記者で前川という人が何を言っているかというと、韓国は日本より40年遅れていて、韓国人は民主主義が何かわかっていない、韓国人の国民性を変えないと韓国は変わらない、と書いている。これがまさに、植民地主義史観なんですよ。日本の人の多くが持っているものです。日本は民主主義制度を確立した国だと思っている。日本には代議員制度があって、自分たちが国会議員を選んで、その中で首相も選んでいる。だから、そんな韓国のようにみんなで集まって何かを変えるとか大統領を弾劾するとかというのは遅れている、という考えです。僕からしたら、日本で民主主義の制度というのは機能していないのじゃないか、と思います。

僕は、その確信を持ったのは台湾のことからです。台湾にもよく行きましたから、台湾の青年を川崎に呼んで毎年3.11の集会をしていたんです。今でもその1千名規模の集会は続いています。その講師で台湾から呼んだ青年が、講演をして帰った1週間後に何をやったかというと、国会占拠です。青年たちが国会を占拠してしまう。原発反対に関しても、台湾で20万人がデモをしました。そして、国会を占拠した学生たちの中から国会議員になる者が出て、その中で選んだ民進党が政権を取りました。民進党は、「2025年までに原発やめます」という宣言文を出しています。これを僕は見ていますから、民主主義というのは制度ではないと思うのです。民衆が自分の意志でモノを変えるというのが、民主主義です。

いま韓国では、200万人のデモを毎週土曜日、6回(2016年の大みそかまで10回)連続でやっています。前川記者は、日本でも田中角栄の時にデモで100万人が集まった、と言います。100万人デモなんて日本でもやったんだ、それは40年前の話だと、そんな風に言うのです。毎週200万人の人を動員するのは大変ですよ。あのキャンドル・レボリューションは、簡単なことではないです。なおかつ、もちろん朴槿恵がダメだということに怒っているんだけども、その裏に何があるかということが重要です。彼ら韓国の民衆はかつて民主化闘争もやりましたが、だけどもできなかった、やり残した問題がいっぱいあるんです。その社会の根底から変えなきゃいけないということを、デモをしながらみんな考えています――「みんな」と言うと語弊がありますけど、少なくとも僕が韓国に行って会った人たちはそうです。

そこには1600団体が入っていて、来年の大統領選挙に向けて公約を何にしたらいいか研究している団体があります。そのトップが、カトリックの神父でした。今ものすごく準備しています。その次に何が起こるか? 朴槿恵が今辞めようと来年辞めようと、大統領選挙をしなくてはならないというのは決まっています。野党側の大統領候補と与党側の大統領候補が出てきて、決戦をします。その時にどっちを選ぶか。僕らは、野党の大統領候補に、台湾のように脱原発宣言を出すという運動を提案しています。この組織を作って。これは日韓共同です。僕らは外野から言っているわけじゃありません。僕らも、当事者――革命の当事者――として言っている。あの革命に僕らも参加したいと思っている。台湾のように脱原発宣言をやるぞ、と。韓国には24基の原発があります。これは、世界で密度ナンバー1です。その地域の人たちは、すでに闘いをしています。

在日朝鮮人が歴史の主人公に
来年の韓国での大統領選挙には、在日韓国人が投票できます。在日韓国人の選挙は形としては、今までもありました。だけど5パーセントくらいしか投票に行かない。それは韓国政府がつくったもので、自分には関係ないと思っていましたからです。しかし今度、在日韓国人40万人のうち半分が選挙に行ったらどうなりますか? 歴史上初めて、在日朝鮮人――植民地主義の中で虐げられたあるいは歪められた民族観を持たされてきて、「被害者意識としての民族意識」を言ってきた僕ら――が、歴史の主人公となる。歴史を決定する、脱原発宣言を韓国でする、その候補者を立てて勝たせる、その運動を僕らがする、ということなのです。このような言葉が、今の韓国で通じ始めてきている。だから、僕は日韓/韓日反核平和連帯の日韓統合の事務局長になったのです。彼ら韓国の運動家もようやく、在日が問題としてきた「当然の法理」を理解するようになりました。それが植民地主義だということもすぐわかりました。

日本では「当然の法理」が植民地主義史観だということが分からないのですが。「多文化共生」について、多文化共生は皆さん良いことだと思っているでしょう。イメージとして。しかし、「多文化共生」というのは、満州侵略のときの「五族協和」です。日本の支配者は何を考えたかというと、「統治」では反発も多いだろうが、「共生」という単語だったら反発がないだろうと考えたのです。支配者にとって統治=共生なのです。このことが伝わっていない。これは、僕らが活動している川崎においても最大の課題です。川崎では、例えば在特会を追いだすということでは勝ったのだけども、次に何したらいいかということにおいて、まだ「在日」の枠は超えられない。今僕らが超えなきゃならないのは、その枠です。僕ら在日韓国人は韓国の選挙権を持っている。日本の在日朝鮮人の運動で、選挙権を行使してこういうことをやりましょうという運動はありませんでした。僕は、意見が違ってもこの一点で一緒にやらないかと在日にメッセージを出そうと思っています。


この候補者に脱原発宣言をさせて韓国大統領選で勝たせる運動は、名前が何だ、というレベルを超えています。世界はどの方向に行かねばならないのか、あるいは人類は何であるか、そういう信念と方向性を持たない限り先に進めません。僕の孫のような、民族にこだわらないけれど、韓国人であるということもはっきりわかっている人間が出てきている。名前とか民族に意味があったのは、日本の同化支配がダメだというアンチテーゼとしての意味でした。でも、その名前や民族そのものに、どういう意味があるのか? 国民国家の枠を超えなきゃならないと言っているときに、民族だ、名前だ、ということにこだわってはいられない、という世の中になってきていると思います。僕らは、今そういう歴史の最先端に立つようになっているのです。

僕らの歴史の原点は日立闘争です。そこから始めて地域の変革とは何か、ということから国籍条項を問題にし、そして差別はいけない、本名で生きるべきだ、と言ってきました。しかし、実はそんなことは当たり前のことです。そこに固執するときに、逆に民族意識とか国民国家の枠を僕ら自身が持ってしまう、というパラドクスに気づくのに、僕は50年以上かかっています。今ようやく、そんなことは大した問題じゃないですよ、と言えるようになりました。大切なのは人間が人間らしく生きるための植民地主義への闘いなのだと。

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