2016年10月8日土曜日

いま、どうして植民地主義を論じるのか(3)ー西川長夫の<新>植民地主義論について

いま、どうして植民地主義を論じるのか(3)ー西川長夫の<新>植民地主義論について
西川長夫『植民地主義の時代を生きて』(平凡社 2013)、この著作は西川長夫の遺書だと私は考えています。国民国家となにか、植民地主義とはどのようなものなのか、フランス文学の研究者であった西川が長年考え提案してきた最後の著作です。この本と、『<新>植民地主義論―グローバル化時代の植民地主義を問う』(平凡社 2006)から彼の主張を引用しながら、いま、どうして植民地主義を論じなければならないのか、読者のみなさんと議論をしたいと願い、3回にわたり書いてきました。
前者の著作は死を意識した西川長夫がこれまでの膨大な著作で展開してきた主張を整理したものだと私には思えます。それに引き換え、後者の著作は、ずいぶんと挑戦的です。タイトルの植民地主義に<新>というかたちにしたのは、いわゆる新植民地主義論とは違うのだよという彼の自負と意気込みが出ています。しかし生の意見であるという点では、かえって、彼の主張の特徴がよく表わされていると見ます。

<独立もまた植民地遺制>
独立が西洋的国民国家の形成を意味していたとするならば、独立もまた植民地遺制の一つです。そして独立という言葉に、残存する自他の植民地主義を隠蔽する働きがあったことも事実でしょう。第二次世界大戦後に植民地支配からの独立を果たした第三世界の新興諸国の指導者たちは、おそらく独立の持つこのパラドクスに気づいていたはずです。少なくとも独立の幻想から覚めるのに多くの時間はかからなかったと思います。この植民地主義に対する旧植民地の側からの新しい認識は、1960年前後に「新植民地主義」という用語で表明され、日本でも一時期活発に議論されたことがありますが、今ではほとんで忘れられてしまいました。」(『植民地主義の時代を生きて』227
このあと、60年代の新植民地主義の代表的な定義として、ガーナのエンクルマ大統領の言葉を紹介します。

新植民地主義の本質は、その下にある国家は、理論的には独立しており、国際法上の主権のあらゆる外面上の装飾を有しているということである。現実には、経済体制、政治体制は外部から指揮されている。この指揮の方法と形態は、種々の形をとりうる。たとえば極端な場合には帝国主義の軍隊が新植民地主義の国家領域に駐屯し、その政府を支配する。しかし多くの場合、新植民地主義的支配は、経済的もしくは金融的手段を通じて行われる。(家正治・松井芳郎訳、理論社、11頁)」
普通に植民地主義ということを言うとき、人々は16世紀以降の、西欧のアジア・アフリカを武力でもって支配してきた歴史のことを思いだすようです。それは領土を直接支配し、経済的な搾取を行い、キリスト教の宣教をしてきたということでしょう。それでは第二次世界大戦の後、多くの国は独立を勝ち取ってきたので、植民地主義というのはそれで終わったのでしょうか。先のエンクルマの定義のように、実は形式的には旧宗主国からは独立したのだが、文化的、経済的、政治的に間接的な支配を受けているというのが、新植民地主義ということです。

めざましく変容、変質した植民地主義を表すために西川が考えた<新>植民地主義論
西川は、『<新>植民地主義論』ではこれまでの植民地主義批判はあまりに「圧倒的な正義の側に立っていた」ので、その前提に立つ民族自決の原則やヒューマニズム(人権)、文明化が当然視され、その言質の実態の検証がなされていなかったことを具体的に批判します。同時に、第二次世界大戦後の植民地解放と民族独立以後に残存する植民地主義を批判した、ポストコロニアル批判が植民地及び植民地主義の変容と変質を論じていても、むしろ911以降、より露骨な形を取り始めたグローバリゼーションと呼ばれた世界的な変動の現実こそが、より鮮明に植民地と植民地主義の変容と変質を示していると指摘します。この植民地及び植民地主義の変容と変質を直視しようということで、西川は、<新>植民地主義という新たな表現方法を用いたようです。

ポストコロニアリズムとは、「脱植民地化時代に突入すると、それまで植民地だった地域は次々に独立を果たしたが、こうした旧植民地に残る様々な課題を把握するために始まった文化研究」(ウィキペディアより)のことです。このことはまた改めてご紹介します。

これは、西川自身はポストコロニアル批判では自分の考えてきた植民地主義に関する問題意識は入りきらないということを暗に言っているのではないかと私には思えます。彼の頭の中では絶えず現実社会における植民地主義の実態が目につき、それと対峙することを強調したかったのではなかったのかと思われます。「いまでは植民地主義が「継続」指摘するだけではいけないだろう。それは形を変え、より強力に、したがっていっそう危機的な形で世界を支配しているにだから。」という言葉がそれを表しているいうに思われます。

国民国家の本質とは何かを考え、同時に北朝鮮という日本の植民地下で育ち、戦後、フランスやカナダでの留学の経験を踏まえて多文化主義の研究をしながら、植民地主義を自分自身の内面をえぐる形で考え続けて西川は、ここで国民国家と植民地主義との関係を言い表すようになりました。そこでは独立した旧植民地下の国が隣国を侵略する例を数多く知り、そもそも国民化ということそれ自体が植民地主義的であるという認識に至ったのでしょう。西川は、あらゆる「国民国家の統治原理は植民地的」である、そして「国民国家とは植民地主義を再生産する装置」であるいうテーゼをだすのです。

テロに対するアメリカの闘いに多くの国が参加する事態の中で、従来の新植民地主義では説明がつかない状況においてその事態を植民地主義と捉える人は少なくなりました。日本をアメリカの属国ということは言葉にしても、戦後も継続してアメリカの植民地下にあるということを理論だてて主張する研究者はいるのでしょうか。私には、原発体制の問題を植民地主義の問題と捉える西川理論は無視されるべきではない、その体制に抗うためにも西川理論への思索を深めなければならないという思いがありました。

西川は、植民地主義の本質を継ぎながら新しい展開をするようになっている現実を〈新〉植民地主義という言い方で説明しようとしたと思われます。しかしの講義で(2012430日)、「私は必要以上に植民地という言葉を使ったかもしれません。私が言いたかったのは、ただ現実を直視しようということだけでした。」というのもまた彼の実感であったように思われます。
台湾で行われた講演の最後で「グローバリゼーションと原発/原発体制ー新しい植民地主義と国内植民地について」東北地方の悲惨な現実を踏まえた話をします。

グローバル化の本質にかんする私たちの結論はきわめて否定的なものものであることはご理解いただけると思います。私の結論は一口で言ってしまえば、グローバル化とは新しい形態をまとった第二の植民地主義(植民地なき植民地主義)である、というものです。・・・だが311の衝動によって、私はより重要で本質的な問題を見落としていたことに気づかされました。それはグローバル化が賭していたものは、石炭や石油に代わる原子力エネルギー、すなわち原爆/原発体制の主導権であったということです。」
冷戦期に始まったこの主導権争いは、社会主義国の崩壊によってアメリカの勝利におわります。グローバル化がアメリカ化となるのはそのときからです。アメリカ化とはアメリカの資本と一体化したアメリカの世界戦略(アメリカ主導による世界の原爆/原発体制化)の一環としてその枠内で全てが進行するということです。だがこの新たな世界システムの内部では二重三重の植民地化が進行しています。」(『植民地主義の時代を生きて』261頁)

ここで西川は十分な説明をしていませんが、国内植民地論の問題を出します。またその前2005年に上海で講演したときには、グローバルシティの問題を提起し、西川の<新>植民地主義論ではこの二つは大きな比重を占めるようになっていきます。

西川の<新>植民地主義論の特徴は、自分自身を根柢的に問うことです
西川長夫は『〈新〉植民地主義論』の前書きとあとがきに同じ言葉を書いています。
植民地主義を批判的に問うことは、国民国家と資本主義の両者の変容と、さらにはその共犯関係がもたらす差別と搾取の歴史を根底から問うことになるだろう。植民地主義を批判的に問うことは、文明概念の根本を問うことであり、五世紀続いた支配的な西洋文明と西洋文明を内面化した非西洋文明の全体を、したがって近代と呼ばれる時代の総体を、さらにはその中に生きる、私自身を根底的に問うことであると思う。

西川は結局、「植民地領有は植民地主義の特定の段階を示すものであって、植民地主義は必ずしも領土としての植民地支配を必要としない」と踏み込み、「古典的な植民地主義概念は、形を変えて偏在する植民地と植民地主義を覆い隠す役割をはたしていた」のではないかと疑問を呈します。これは、西川長夫の挑戦の言葉でしょう。この著書『<新>植民地主義論』の目的を本人は、植民地主義を緊急な課題として対象化し、その変容を確認し、その概念の転換を主張し、自分の植民地主義を論じるポジションと起点を示します。

西川は自分が生きてきた戦後に自分の個人史を重ね合わせ、戦後は植民地であると結論し国民国家は植民地主義の再生産装置であり、国民は必然的に多少とも植民地主義者であることを明言するのです。西川は「長年それをいうために文書を書いてきたかもしれない」とまで書いています。従ってかれの結論は、「脱植民地化は、政治・経済・文化の問題であると同時に、私たち個々人の問題であり、その背後には日本の近代と世界の近代の数百年の歴史がある。」ということになります。

結論として
一時歴史学会を風靡した西川の国民国家論、及び彼の植民地主義論がその後、学会でどのように扱われているのか、そのような場に身を置かない私にはまったくわかりません。最終的には、反アカデミーの立場をだされたのですから、学会でよろこばれるはずもないでしょう。また彼の現地調査といっても数日の滞在でしかなく、そこで住み、徹底した現場から積み上げた理論ではなく、観念論であるという批判もありうるでしょう。

しかし私は、西川が日本の戦前の植民地支配の問題が全くと言っていいほど、問われずにきたこと、日本の戦後の「復興」から継続する発展を植民地主義の連続であるとはみなされていないことにやるせない、深い怒りを抱いていたのではないかと思うのです。この戦後日本社会の現実を植民地主義という観点から直視し、その現実を植民地主義からどのように説明できるのかということを植民地主義の変容と定義づけながら<新>植民地主義論として考え続けていたのだと思います。

最後に、西川の「遺言」で若手研究者に託した『戦後史再考』(平凡社、2014)の完成に、なんの研究者としての実績のない私と、日立闘争当事者の朴鐘碩が原発メーカー訴訟に係る立場から、筆者の一人になることを西川から請われました。私は西川から影響を受け在日の生き方の模索から、地域活動を通して多文化共生を「統治」の観点から批判するようになり、その著作の中で「原発体制と多文化共生について」を書きました。その冒頭に私は西川が残した『植民地主義の時代を生きて』の一節を引用しました。

原爆/原発体制は、資本と国家の結合が推し進めてしまった末期的な危機であり、植民地主義の末期的な形態であることを詳しく論じる余力は私には残されていないが、私たちは、人類が生き延びるための最後のチャンスに懸けているのではないだろうか。

私は西川長夫に心からの感謝を捧げます。そして彼のいう「最後のチャンス」に徹底的にこだわり、植民地主義に抗っていくつもりです。それは自分自身を「根柢的に問うこと」であると同時に、<新>植民地主義と西川に言わしめた、植民地主義による危機的な状況の中で、国際連帯運動を構築していくことでもあると思うのです。在日の生き方を求め続けてきた私の最後の闘いになると思います。

いま、どうして植民地主義を論じるのか(1)―私の問題意識

いま、どうして植民地主義を論じるのか(2)ー西川長夫の「植民地主義の再発見」
http://oklos-che.blogspot.com/2016/10/blog-post_54.html

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