2016年8月14日日曜日

~日立闘争後から原発メ-カ訴訟までの軌跡~ 朴鐘碩 

8月4~8日の韓国訪問ツアー、日韓脱核平和巡礼に参加した、日立の現役の嘱託社員でありながら、原発メーカー訴訟の会の事務局長である朴鐘碩さんから、12月5日に発行予定の雑誌「抗路」で掲載予定の原稿を本人の承諾を得て、ここに掲載させていただきます。                  崔 勝久

~日立闘争後から原発メ-カ訴訟までの軌跡~
朴鐘碩 

私は、高校卒業後19歳の時に就職差別した日立製作所を横浜地裁に訴えました。4年近い裁判闘争で民族差別の実態を訴え、日立の経営陣を糾弾し、国境を越えた運動によって完全勝訴し、22歳で日立に入社しました。在日朝鮮人への差別・偏見に立ち向かい、常識を覆した日立闘争は「これでようやく終わった」と思いました。この日立就職差別裁判闘争は、公立高校の教科書に掲載されています。

【判例】日立訴訟-在日朝鮮人への就職差別
【概要】1970年愛知県の高校を卒業した朴鐘碩(パクチョンソク)さんは、横浜市にある日立製作所ソフトウエア工場を受験、9月に採用通知を受けた。しかし「在日朝鮮人なので戸籍謄本は提出できない」と話したところ、会社側は「応募書類に日本名(新井鐘司)を用い本籍も偽って記入するなどウソつきで性格上信頼できない」として採用を取り消した。そこで朴さんは「採用取り消しは在日朝鮮人であることを理由とした「民族差別」として提訴した。
【裁判の経過】横浜地裁(1974.6.19):労働基準法第3(均等待遇)、民法第90(公序良俗)に反し、採用取り消しは無効。à会社側は控訴断念。
【地裁判決の要旨】「在日朝鮮人」は、就職に関して日本人と差別され、大企業にほとんど就職することが、多くは零細企業や個人経営者の下に働き、その職種も肉体労働や店員が主で、一般の労働条件も劣悪な場所で働くことを余儀なくされている。また在日朝鮮人が朝鮮人であることを公示して大企業等に就職しようとしても受験の機会さえ与えられない場合もあり、また朴さんにとって日本名は出生以来ごく日常的に用いられてきた通用名であって「偽名」とはいえず、採用試験に当たって、前記のような在日朝鮮人のおかれた状況から、氏名・本籍を偽ったとしても、採用を取り消すほどの不信犠牲があるとは認められない。(「民族差別」亜紀書房)判決後会社側(日立製作所)は控訴を断念。「現代社会 2015

裁判勝利して、749月、日立に入社し、201111月定年退職するまで、職場で私が何を考え、どのような生き方をしたのか、日立は、本当に差別をなくすために具体的な施策をしたのか、ということについては書かれていません。

日立は、日立鉱山を発端にして、朝鮮半島が日本の植民地となった1910年に創業しています。年間売上高は10兆円弱です。33,500人の所員と947の関連会社を含めた総従業員数は約32万人で、家族を含めると日本の人口の約1%に相当します。

20113月福島原発事故が起こりましたが、日立は、東芝、三菱と並ぶ原発メ-カです。日本にある原発54基の内20基以上を造っています。事故を起こした原発は、GE、日立、東芝が造りました。裁判闘争を経て1974年、日立に入社した私は、全く未知なコンピュ-タソフトウエア部門に配属され、プログラム開発に従事し、仕事を覚えるのに必死でした。当時IBMが世界のコンピュ-タ市場をほぼ独占し、技術の先端でした。それに追随する日立の経営方針に従った数人のエリ-トエンジニアは、1981IBM産業スパイ事件を起こし、最終的には和解したものの職場はその後始末と対策に追われ、余計な業務が増えて大変な騒ぎとなりました。

開発設計者は、工程を死守するため長時間残業をし、徹夜することが日常化していました。製品は、事前に繰り返し厳しい検査・性能評価を経て出荷します。それでも予期しないプログラムの論理不良で証券・金融のオンライン業務が停止しマスコミ報道されたりすれば、経済・社会への影響は計り知れません。その責任は、当然メ-カにあります。

私は、プログラム開発と保守を経験しましたが、製品の不良原因には、設計した当事者でなければわからないという、致命的な欠陥があります。不良箇所を作ったと疑われる関連会社を含めた設計担当者は原因が判明するまで帰宅は許されず、事故調査のため徹夜作業が何日も続くこともあります。開発と調査で心身共に疲弊し、出社拒否したり、職場で倒れたり、入院するエンジニアもいました。不良の原因が判明すれば顧客に報告しますが、職場ではその後も不良箇所を作成したプロセス、技術および動機的原因を徹底的に議論し追求します。不良箇所を作った担当者およびその上司は、他の業務を一切停止し、事業所幹部に報告するドキュメント作成に追われます。

日立(企業)の労働者は、資本の論理に従い、上司から課せられたノルマを遂行することが求められます。3.11原発事故後もそれは変わらず、会社・組合からは、事故の状況、収束工事に関する説明がなく、事故と関係なく日々の仕事に追われています。日立就職差別裁判が起こったとき、日立労組幹部はじめ多くの労働者は見て見ぬふりをしましたが、この反応は多くの犠牲者を出した福島原発事故に対する沈黙と通じています。原発メ-カの労働者は、原発製造・輸出といった会社の事業に疑問を感じても、業務に追われ、自分の将来を考えて沈黙します。

企業は「個性」あるユニ-クな学生を求めますが、利潤と効率に繋がる個性であり、人間性・人権を求める個性ではありません。

トップダウンで全て決定する日立労組は、所員を強制的に加入させて組合費を給与から天引きし、幹部の裁量で自由に遣います。組合員は組合費の使途を情報公開請求できることになっています。私は何度も請求しましたが、組合(幹部)は拒否しました。
組合への批判や苦情を公にすれば組合幹部・職場の上司から睨まれ、昇進の妨げになる恐れがあります。また組合は、会社支援の下で役員選挙を実施しますが、その実態は、職場と候補者名だけが掲示され、組合活動に関心もない、所信表明もしない、ものを言わない、会社と組合幹部の意向に沿った組合員が立候補します。立候補する組合員に所信を尋ねると、殆ど沈黙するか、「組合から頼まれたから立候補した。具体的にやりたいことはない。」と応えます。

企業社会では、「言論の自由」が保障されていないため、不祥事・談合・偽装のような犯罪があっても、経営者を公に批判し、まして地球全体を汚染する原子炉の製造を中止し、事故の責任を求める組合幹部・エンジニアは皆無です。かげで上司のやり方に愚痴をこぼすことはあっても、経営トップの哲学を批判できる開かれた風土、風通しの良い企業文化は存在しないと思います。逆に言えば企業・組合は、労働者の沈黙によって支えられていると言えます。不良製品とエンジニアに沈黙を強いる経営体質は深く関係しています。

日立就職差別裁判の勝利から5年後の1979年、東京に本社を置く経団連に加盟する多くの企業は、「差別図書である『部落地名総監』の購入、採用にあたっての差別選考等の反省を契機として、それぞれの企業が差別体質の払拭に取り組む」東京人権啓発企業連絡会(人企連)を発足しました。124(20157)が加盟しています。

原発事故で世界の人々を核の恐怖に導き、人権を侵害した東京電力、原発メ-カである日立・東芝・三菱の関連企業も加盟しています。人企連の役員は、反差別国際運動(IMADR)日本委員会、部落解放研究所、東日本部落解放研究所等の「人権」運動団体の会長、副会長、理事などに就任し、また賛助会員、法人会員になって、「あらゆる差別の撤廃にむけて取り組」んでいます。これは労働者に沈黙を強いる企業経営者、組合、運動体の「共生体制」です。

ところが、人企連に加盟する企業経営者の一部が1996年創設された、歴史を歪曲する「新しい歴史教科書をつくる会」に賛同していることが判明し、私は「東京人権啓発企業連絡会を糾弾する」抗議文を提出しました。また人企連は、原発事故を起こした日立・東芝の経営陣に責任を追及していません。日立製作所・中西宏明元社長は、20136月の株主総会で次のように述べています。

「原発に取り組んでいることを恥ずべきことだとは、片時も思ったことはない」「原発事業は恥ずべきことではなく、むしろ誇ること」「イギリス、リトアニア、ベトナム、インドなどで進めていきたい。GEとはワンチームだ」と原発事故の原因も解らず、事故収束の目途もないまま、平気で原発の輸出を強調し、犠牲となった福島の住民はじめ世界の人々への謝罪の言葉は一切ありません。
日立の経営陣は、日本の植民地支配の歴史から生まれた民族差別を謝罪しましたが、被曝した広島の惨状を見た金井務元会長は、強制連行された7万人以上といわれる朝鮮人が広島と長崎で亡くなり、多くの日本人が被曝した事実、原爆の恐怖、戦争責任ついて全く触れませんでした。

「日立の経営陣は、一体日立闘争から何を学んだのか。日立は、あらゆる差別をなくし、開かれた企業を目指したのか。」と感じるのは当然です。戦後の植民地主義である原発体制は、ウラン発掘、原子炉建設、被曝しながら廃炉作業に関わる末端労働者、解決の糸口がない使用済核燃料処理、海洋への大量の汚染水垂れ流しなど地元住民に犠牲を強いています。つまり差別と抑圧を前提にしています。

原発事故があった2011年、私は日立製作所を定年退職し、現在、日立で嘱託として働きながら「原発メ--訴訟の会」事務局長として関わっています。

●労働者に沈黙を強いる「企業内植民地」
「私は仕事だけしていればいいのか。何のために裁判までして日立に入ったのか」と悩み、入社して、5年後、胃潰瘍で1か月入院しました。労働者は、言いたいことがあるのに、何故、職場集会で発言しないのか、労働者の問題と民族差別の関係を考えるようになりました。開かれた企業・組合組織を求め、人間らしく生きるためには、「国籍、民族など関係なくおかしいことはおかしいと言う勇気と決断が大切だ」と開き直り、発言するようになりました。

日立製作所の職場集会は、管理職の前で開かれ「民主主義」を装うためのポ-ズでしかありません。組合(幹部)は、組合員が会社・組合に批判・不満があっても上司のいる前で発言しない(できない)ことを承知しています。組合員自ら「これは選挙ではない」と話す選挙投票日、投票率を上げるために、事前に選ばれた委員が組合員名簿をチェックし、棄権する(しそうな)組合員に上司がいる前で「投票しろ!」と意図的に周囲に聞こえるように恫喝します。「私は投票しません」と勇気を表明する組合員は皆無です。組合員は、生活を考え、孤立を恐れて従うしかありません。

日立が民族差別を起こした背景には、こうした労働者がものを言う「表現の自由」を束縛する企業文化があり、この抑圧から解放されなければならないと思い、会社と組合から厳しく監視される中、私は役員選挙に立候補しました。ほとんどの組合員が無視する中で、当初30%近く得票しましたが、1度も当選しませんでした。私に投票する組合員は「パクさん頑張れ!」と声を発することすらできません。

日本人労働者が、ものが言えない企業・社会・組織の中で、「自らと関わりのない」植民地で犠牲となった外国籍労働者の差別・人権問題を提起すると多くの労働者は反発します。労働者にものを言わせない、抑圧的な職場は差別・排外に繋がる就職差別・不当な解雇事件を起こし、経営者に原発事故の責任を追及できず、沈黙に繋がっています。

組合費の使途、選挙方法、組合費から支払われる組合幹部報酬、職場の不満・疑問があっても、誰も発言しません。ものを言わ(せ)ない組合員を悪用した組合(幹部)の横暴に我慢ならず、日立本社で開かれた労使幹部の春闘交渉現場に参加し、組合を批判したこともあります。私の言動を封じるためなのか、組合・会社は職場集会をなくしました。

原発事故後、原発メ-カで働く労働者のひとりとして、沈黙していいのか悩み、内部から声を発することの意味、重要性を考え、日立製作所の会長・社長に抗議文・要望書を提出し、原発メ-カとしての責任、被曝避難者への謝罪、原発事業からの撤退、輸出中止、廃炉技術・自然エネルギ-開発への予算化を求めました。

また、東京駅前にある日立本社に向かって、海外からの参加者と共にリトアニアへの原発輸出に抗議しました。原発事故から3年目となった2014311日、日立資本の城下町である日立市中心街で、青年たちと共に「反原発、輸出反対!」「日立の労働者は、目を覚ませ!」「日立の経営陣は被曝避難者・子どもたちに謝罪しろ!」と訴え、東京新聞・茨城版に掲載されました。

数百名が集まった職場の予算説明会で私は、「日立製作所にとって原発事故は、緊急な課題である。原発事故から3年経過したが、原発事故にどのように対応しているか。土地を奪い、家族の絆を引き裂いた被曝避難者のことを考えないのか。遺伝子を破壊する放射能、子どもたちへの影響を考えて日立の関係者も避難していると思われる。事故を起こして原因も究明せず、なぜ、原発を輸出するのか。その神経がわからない。日立の経営陣は、一体何を考えているのか。新聞報道されたが、原発メ--である日立は、世界中の人々から責任を問われている。企業としての道義的・社会的責任をどのように考えているか」と問いました。

原発輸出は、相手国住民を差別・抑圧し、戦前日本がアジアを侵略したように再び日本が加害者になることが懸念されます。京都、川崎、大阪などの街頭における排外主義を煽る朝鮮人へのヘイトスピ-チデモ、愛国主義を謳う人たちが増えていますが、弱者及び外国籍住民を抑圧することは、ものが言えない社会へと繋がります。ものが言えないのは、自治体・教育現場・マスコミなどどこの世界も同じような状況だと思います。
企業社会は、経営者と組合幹部が「労使一体」という「協働(共生)」を謳い、民主主義・人間性を育てない(育たない)ように労働者を巧みに管理・支配しています。こうした職場に就職して、人間性を求める後輩たちが企業社会でどのような生き方をするのか、悩み、日々問われると思います。

戦前、日本の企業は、労働力不足を強制連行した朝鮮人、捕虜で連れてこられた中国人などで補い、植民地であった朝鮮において莫大な利益を得ました。戦後、日本政府は、日本国籍を剥奪し、官民一体で外国籍となった朝鮮人の、人間としての権利を奪い、職場から追放しました。

戦前の植民地支配から生みだされた差別・偏見によって在日朝鮮人の子どもたちの教育・就職に悩むオモニ(母親)、アボジ(父親)が集まった、川崎南部地域で開かれた日立就職差別闘争勝利集会で「国籍を理由に児童手当がもらえない、市営住宅に入居できないのはおかしい。差別ではないか」とアボジから問われたことがあります。

この問いによって「そうか、そのような差別をする法律自体がおかしい。法律よりも人間の尊厳を最優先すべきだ」と気付き、そこから法律によって差別を正当化する国籍条項を撤廃させる運動が始まり、段階的に自治体ごとに国籍条項が撤廃され、その後、年金加入、銀行融資を受けることも可能になりました。

●外国籍住民を2級市民扱いする、植民地主義である「当然の法理」
全国の自治体は、国籍条項を「撤廃」し、外国籍住民との「共生」を謳うものの、(1953年の)内閣法制局の見解である「当然の法理」を理由に、採用した外国籍地方公務員に許認可の職務、決裁権ある管理職に就くことを禁じています。これは植民地時代、朝鮮人・台湾人を2級市民扱いした現代版です。

2002年、当時の阿部孝夫川崎市長は、就任早々「日本国民と、国籍を持たない外国人とでは、その権利義務において区別があるのはむしろ当然のこと」「会員と準会員とは違う」と、戦争に行かない「外国人は準会員」(「正論」20021)発言しています。 

政府の見解にすぎない「当然の法理」(国籍)を理由に、採用した外国籍公務員に許認可の職務、管理職への道を閉ざした、「外国籍職員の任用に関する運用規程」を作って日本に差別制度を確立したのが川崎市です。

「運用規程」は、100頁以上に亘って、外国籍職員に制限する職務と理由が記されています。これは労働基準法3(均等待遇)に違反し、明らかに労働者の権利を侵害しています。ところがこのマニュアルのサブタイトルは、「外国籍職員のいきいき人事をめざして」となっています。
外国籍の青年は、事故・災害・震災時、人命救助する消防士に就けません。また正式教員でなく()常勤として採用され、管理職である教頭・校長に昇進できません。

「運用規程」は作らなかったものの、原発事故が起きた福島、再稼働が可決された鹿児島県、被災した東北の自治体、米軍基地撤去を求める沖縄、皆さんが住んでいる地域、全国の自治体は、例外なくこの川崎方式を採用し、調査すればその実態がわかります。「運用規程」による差別制度は、自治体首長の裁量で撤廃できますが、首長に抗議・撤廃を求める自治体労働組合、運動体はないようです。

国籍を理由に採用を取り消し、原発事故の謝罪もせず、労働者に沈黙を強いて原発を輸出する日立グル-プの経営陣や、「運用規程」で外国籍住民を2級市民扱いする自治体の姿勢は、植民地主義であり、国民国家の戦略です。

今年84日から8日の「韓日脱核平和巡禮」に参加し、豊臣秀吉の朝鮮侵略に批判、不満を持った日本人・沙也可-朝鮮に帰化した金忠善将軍-が奉られている鹿洞書院(ノクトンソウォン)を訪問しました。侵略による朝鮮人民衆を殺戮・弾圧することに意味を見いだせないと悟った沙也可は、朝鮮人・日本人を抑圧する秀吉軍と闘いました。今ではこれを国際連帯と言います。

罪のない朝鮮人を強制連行し、人間としての権利を全て剥奪した敗戦後の日本の朝鮮人政策と酷似しています。「当然の法理」で外国籍住民を差別・抑圧することに意義を見いだせない、自治体首長に抗議する「沙也可」は現れないのでしょうか。

 日立闘争が始まるまで、在日朝鮮人青年への就職差別は、同胞社会で当たり前でしたが、当事者からの抗議によって企業、日本社会の隠された差別・抑圧の実態が明らかになりました。

人間としての権利を剥奪した歴史に加担した企業、自治体、それに抗議しなかった労働組合の戦争責任を不問にしたことは、日立、東芝、東電のような企業内組合からなる連合の労働運動が体制化したことにも繋がりました。

民族差別は、日本の植民地支配から生まれ、戦後、朝鮮半島は、核を保有する覇権国によって分断されています。「韓日脱核平和巡禮」で、ソウルでの討論、陜川非核平和前夜祭、大邱非核平和文化祭に参加しました。強制連行された朝鮮人が広島、長崎で犠牲となり、原曝が投下された86日慰霊式典、民間からの寄付で建てられた被爆2世の「平和の家」開院式に参席しました。核による犠牲者は明確になっていますが、加害者の責任が問われていません。米国の原曝投下、日本の戦争責任が問われることなく戦後71年が経過しても「植民地」は、続いています。

原発と核兵器は、表裏一体であり、超大国の核による世界支配を補完するものです。戦後の原発体制は、朝鮮半島の状況がそうであるように人間・民族・国家間を分断し、難民、棄民を生み出し、差別構造の上に成り立ち、弱者に犠牲を強いる非人間的なものです。

日立の経営陣は、日立就職差別闘争からこうした歴史的な背景を学び、国籍・民族を超えて労働者にとって差別のない、人間らしく働きやすい、開かれた職場をつくるべきだったのです。

原発メ-カの道義的・社会的責任と人類と自然を破滅に導き、核兵器に繋がる原発の開発・製造事業から完全撤退することを求め、世界39ヵ国4千名(海外2,500)近い原告が、20141GE・日立・東芝3社を東京地裁に訴えました。しかし、世界を震撼させた原発事故の審判を担当した裁判官は、本人訴訟、原告側の主張、証人申請を拒否し、強制的に審理を打ち切りました。4回の口頭弁論だけで、2016713日敗訴となりましたが、控訴手続しています。

戦後、差別と抑圧を基盤に経済繁栄を優先させた原発体制を打破するためには、原発事故の原因、原発メ-カの責任を徹底的に追求し、2度とこの世界で原発事故を起きないことを願い、反原発を訴える世界の人々と連帯が不可欠です。これはこの世で生きる私たちの責務であり、子ども、孫、次世代への責任でもあります。

歴史は作られるものではなく自分で作るもの、人権は与えられるものではなく自分で獲得するものである、ということを私は日立就職差別裁判闘争から学びました。

「日本における多文化共生とは何か」「戦後史再考」の源になった原稿は、勤続25年を記念に会社と組合に提出し、東亜日報・朝日新聞の共同主催の「戦後50年日韓交流への提言」として応募した論文です。日立は、「この論文を取り戻すように要求」しましたが、何日も話し合いを続けた結果、要求を撤回しました。その後、私が勤務する事業所は、セレモニ-で実施していた国旗掲揚・国歌斉唱を中止し、勤続25年の記事が朝日新聞(96127)に掲載されました。


【参考資料】
「原発メ--訴訟の会・本人訴訟団」陳述書20151028
「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」-コミュニケ-ション-掲示板
「アリラン通信NO.54」反原発運動にかかわる 20155
「戦後史再考」共著 平凡社 201410
「原発体制から「見えない」植民地主義と排外主義の考察」2014716
「日立資本の城下町・茨城県日立市で反原発をアピ-ル」2014311
1970年「日立就職差別闘争」からの問題提起~歴史科学講座 一橋大学201421
「原発事故と日立就職差別糾弾闘争」考察 201375
「植民地主義の時代を生きて」(西川長夫)を読んで2013616,21
川崎市長への抗議文 201331
日立製作所(会長・社長)への要望書 201363  20121017
日立製作所(会長・社長)への抗議文 2012619
「日本における多文化共生とは何か」共著 新曜社 20087
「耕論オピニオン 冷や飯を食う」2012512日朝日
「窓 論説委員室から ある会社員の定年」20111228日朝日
「勤続25年」1996127日 朝日新聞
日立製作所労働組合・統制委員会への公開書簡 200662
日高六郎理事長 高橋幸吉事務局長への抗議文
社団法人 神奈川人権センタ-を糾弾する 19971
にゅうす・らうんじ「在日」の壁乗り越えて1990528日朝日
「民族差別-日立就職差別糾弾」亜紀書房 1974
民族的自覚への道-日立就職差別裁判上申書1974
横浜地方裁判所日立就職差別裁判判決文 1974619

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