2014年12月19日金曜日

在米原告Sam Kannoさんの投稿: 「巨大な原子力マフィア」と言いながら その実態を明らかにできない島、河合弁護士による「訴訟」

米国在住原告のSam Kannoさんの論文を紹介します。
Samさんは来年2月21日に来日、私達が企画する白井聡・小出裕章両氏の講演会に参加し、その後、東京でのご自身の講演会と、訴訟の会の今後のあり方について検討する会議に出席される予定です。ご期待ください。

現在、訴訟の会事務局と弁護団との間での「混乱」に多くの方が憂慮し、どちらもどちら、両者仲よくやるべきだという声が漏れ聞こえます。事務局としては弁護団との話し合いの場の設定を申し入れています。しかしそのような中立的な立場を取る方に決定的な視点が抜け落ちています。それは、どうして4000名の原告の内、事務局長一人をターゲットにして、弁護団としてその代理人を辞任し、実質的に原告からの追放を謀るのか、という点です。裁判における本質的な問題を忌避するために、敢えて崔個人の資質や行動の問題にすり替えているのです。

事実、12月4日に出された「崔勝久氏に関する弁護団声明」は、崔は「事務局長という立場を利用して、本訴訟全体に大きな損害をもたらすおそれのある行為を繰り返している」と記していますが、内容を検討すると、そこに記された理由なるものは巧妙に書かれたデマであり、真実を歪めていることが明らかにされています。そのようなことを何故、弁護団は承認し、名前を連ねたのか、疑問が残ります。
(参考資料:2014年12月19日金曜日 「12月18日付けの原発メーカー訴訟弁護団からの回答書に対しての反論」http://oklos-che.blogspot.jp/2014/12/blog-post_19.html)

Samさんの論文は、国際連帯を訴え、原発体制の本質的な問題を提起してきた事務局長の辞任を求め、最終的には原告からの追放を謀る弁護団の姿勢は、実は根本的にこれまでの日弁連の「安全保障」に触れない司法界の立ち位置と関連し、訴状においても、原発体制の根本的な問題である、NPT体制には触れないでいるという批判になっています。Sam論文に対するみなさんのご意見をお願いします。(崔 勝久)



  「巨大な原子力マフィア」と言いながら
   その実態を明らかにできない島、河合弁護士による「訴訟」
~ NNAA(No Nukes Asia Actions)に依頼された訴訟内容を歪め、企業責任限定裁判にする
島弁護士~

12月15日
米国在住原告 SAM KANNO


  皆さん
 
ようやく「混乱」の核心がはっきりしました。島弁護士が自ら告白したのです。

 訴訟の会事務局に断りもなく出された『弁護団通信』第2号の2ページから3ページを見てください。2.信頼関係の喪失 として書かれているところに、問題の核心が明らかにされています。NNAA(代表崔勝久氏)が島弁護士に依頼した訴訟の内容と、依頼された島弁護士が考える訴訟の内容が違っていたということです。それがだんだんとはっきりしてきて、ついに依頼された弁護士が依頼人本人の排除を(しかも崔勝久氏個人をNNAAから切り離して)図るに至ったということです。これは弁護士という職業の倫理規定の根本に抵触することです。

 訴訟の内容についてどんな点で違うのでしょうか。
 依頼者のNNAAはその名称からして明らかなように、原発の世界一の密集地であるアジア地区における原発問題を見据えて作られた組織です。その地域において日本と韓国の両政府が福島核災害後もなお原発輸出を図っていこうとする事態を前にして発足したNPO組織です。最初からアジアという国際的現実を直視してできた組織ということが確認されていなくてはなりません。

 それともうひとつNNAAが自らに課した課題として、日本の反原発、あるいは脱原発運動が日本国内だけの運動に終わってしまい、とりわけアジアの運動との連携が軽視されてしまっている点を何とか克服したいとの問題意識があります。「日の丸の旗は掲げてもいいが、労組の旗や人種やジェンダーの課題は規制する」というデモ規制や、台湾で大きく盛り上がっている「日の丸原発稼動反対」の運動には連帯の挨拶ひとつ送られない。

こうした閉鎖性(というか、アジアの大衆運動を見下した姿勢)を如何に突破していくかの追及です。こうした問題意識を持つNNAAであるからこそ、『原賠法』、そしてその背後にある『日米原子力協定』という“国際協定で免責が強要され、法制化した「原発メーカー」の責任を追及する”という、既存の『日弁連』をはじめとする司法界の誰もが(1959年の砂川基地訴訟における田中最高裁の「安保法制に関わる行政の行為についての憲法判断回避」判決以来)避けてきた(!)「安保法体系」にも関わる訴訟の提起が可能となったのです。

 福島をはじめとする日本各地に50余も作られた原発は、そのほとんどがGEGeneral Electric)、WHWestinghouse)という米国メーカーのライセンスを元に(但し日本1号機は英国製)日立、東芝、三菱重工、IHI(石川島播磨)という旧財閥系メーカーによって作られてきたのですが、事故を起こした福島を始め全ての原発の製造メーカーおよび部品供給メーカーの製造物責任が免責され、電力事業者である電力会社に損害賠償の責任が集中されています。この不平等性・反倫理性はなぜでしょう。しかもその電力事業者による賠償の限度額も一事業所につき1200億円と限られ、あとは国費を投入する仕組みです。日本ばかりではありません。これまで世界中に400余も作られてきた原発のほとんど全てがこのような仕組みの下に建設されてきたのです。

 この不合理な仕組みは、1953年の34代米国大統領アイゼンハワーによる「Atoms for Peace」として知られる国連総会での演説以来、60年間に亘って継続されてきています。原発は核兵器保持国、なかでも米国とソ連(ロシア)という二大強国による(軍事力による世界支配を意図した)核兵器保持を正当化するための方便として作らされてきたものです。核兵器という“無差別大量殺人以外に使い道のない兵器”の保持をただただ“正当化するため”に米国大統領は「核の平和利用」を謳ったのです。その演説で構想された核の「拡散」は、核の技術と原料の「供給国」側の責任が一切問われない“2国間協定”という仕組みの下で為されています。もちろん「受領国」側には日本のように「潜在的な核兵器保有国」としてのステータスを得たいという野望があって協定を結んだところもあるわけです。
 「Atoms for Peace」演説の意図とその構造については、ライフワークとして原子力の問題を扱っているフリーランス・ジャーナリストの鈴木真奈美さんの書かれた『日本はなぜ原発を輸出するのか』(平凡社新書)の第6章において的確に解明されています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(引用)
「(米国が)核技術と核物質を提供すると世界に示すことで、核エネルギー利用は共通の利益との認識を定着させ、その当時、核技術の既得国に対して強まっていた批判を和らげるとともに、米国の核兵器製造能力(その工程は軍事利用も「平和利用」も同じ)の保持を国内的にも国際的にも正当化することにあった」(P193
「米ソはそれぞれの陣営における主要な原子力『供給国』だ。こうして両国が原子炉や核燃料などの供給を通じて自陣営の原子力開発を推進し、かつ管理・規制する体制が形成されていった。それはまた、原子力「受領国」は保障措置の受け入れ(すなわち核武装の放棄)と引き換えに、米国あるいはソ連に「核の傘」を含む拡大抑止力の確証を求めることにもつながった。冷戦構造に立脚したこの体制によって、両陣営はそれぞれの原子力産業(核兵器製造を含む)のネットワークを維持・拡大することが可能となり、米国あるいはソ連を中心とする軍事と民生の双方にまたがる『核の同盟』が形成されたのである。」(P198
(引用終わり)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 こうした仕組みを、国連(常任理事国は米、露、英、仏、中の核兵器保有5カ国)決議を通じて国際的に押し広げて作られたのが「NPT(核不拡散条約)体制」であり、「IAEA」という国際機関による“保障措置”なのです。そして今また明らかになっている事態は、日本、韓国、フランス、ロシアなど自国に於ける原発建設を通じて核兵器製造に通じる核技術を維持してきた国々が、世界への更なる拡散の役割を担って、競って輸出を図っていることです。

要するに、第2次世界大戦を核兵器という“無差別大量殺人兵器”の威力を見せつけて終わらせた強大国がその支配を続ける為に、稚拙な「言い訳」と共に、国の軍事費に加えて民間の金と人材をも動員して作り出したのが「核の平和利用」体制です。60余年に亘る「平和利用」の妄想の下に得られたものは、「原発」と名づけられた“危険な湯沸かし器”だけであり、その副産物が人類を何度も滅亡させるに足る量の放射性廃棄物の世界への拡散です。フクシマ核災害はその危機にある現実を露わにしました。これらのことをあきらかにしていくことこそが世界中に存在させられている原発群中の一群である日本の原発群を廃絶していくために求められていることです。

その危機的な現実の世界的構造を訴えることなく、「原発メーカーの製造物責任」に限定した訴訟とするなら、国際的連帯・支援の運動を作り出すことはもとより、「経済再建の柱(アベノミクス第3の矢)」と「相手国の要請」を名目に原発プラント一基500億円の儲けを懸けた安倍政権による原発輸出に、訴訟原告団として「ノー!」を突きつけることも出来ないのです。

 「原発メーカー訴訟」においてそこにまで踏み込めるかどうか、NNAAの追求している訴訟と島弁 護士プラス「日弁連」の原発訴訟分野の大御所たる河合弘之弁護士などの考えている訴訟との分かれ道がここにあります。

 「国を相手に訴訟をするつもりはない、あくまでも企業の責任を追及するのだ」「君たちは裁判が分かっていない」と島弁護士は原告の一女性に言い放ったそうです。これが「安保法制に手をつける裁判は出来ない」ことが充分に分かっている既存の弁護士の大組織である「日弁連」の常識のようです。
 「日弁連」によって2014年10月3日に出された『原発訴訟における司法判断のあり方、・・・宣言』とその「提案理由」という長文の文章にもなぜ原発事故の賠償責任が電力事業者と国(税金)にのみ
「集中」され、原発メーカーは免責されているのかについての言及はありません。
 島弁護士によって書かれた「原発メーカー訴訟」の「訴状」においても、「提供国」側の国と企業の免責が「英米からの免責要求」として求められ、国内法として事業者へ損害賠償を集中させる『原賠法』が立法化されたと、経過として語られてはいても「原発メーカーの免責をいまなお要請し、2018年まで継続される『日米原子力協定』」についてはなぜか言及がないのです。もちろん原発を現在も“核兵器保持の正当化”の為に作らせているNPT体制への言及はまったくありません。これでは“メーカーの製造物責任”を切り口に「原発の存在自体を告発する訴訟」に出来るわけないのです。
 「日弁連」が考えている原発関連の訴訟をその『宣言』で見てみましょう。

 脱原発の為に解決すべき課題として、①原発の廃止と司法審査の改善/②原発の安全性確保の為の情報開示/③核燃料サイクル・放射性廃棄物による人権侵害の防止/④原発依存から再生可能エネルギー等を通じた地域の自立/という4つほどが提案されています。

 この文章には「原発の廃止」が言葉としてあっても、なぜこれまで廃止できないできたか、なぜ全ての「原発稼動差し止め訴訟」で住民側が敗北を重ねてきたか、そしてその結果としてフクシマ核災害を現出させてしまったことへの痛苦な反省がないのです。せいぜい、①について「行政側の専門的意見ばかりでなく、原告側の科学的・経験的合理性を持った意見」も真面目に検討してくださいとの要請があるばかりです。幾度も訴訟を通じて原発の危険性をめぐる公的な論議を重ねながらも、核災害の現出を防ぐことが出来なかった「司法界における責任追求」がないまま、全体として「原発依存から再生可能エネルギーの利用促進へ」といった、「過去はともかく、これからは」といった“脱原発”の政策誘導の内容になっています。

フクシマ核災害を依然として終息させられないなかで、「原発を作って儲け、事故で儲け、収束作業で儲けている」といわれる原子力ムラを中心とした産業界、もちろんその中心に軍需産業にも進出している日立、東芝、三菱重工、IHIの原発メーカーや原発付帯施設を作ったり、事故収束作業を請け負っている鹿島、大成、清水、大林、竹中などの大手ゼネコンが位置するわけですが、それらに対する責任追及もまったくないのです。「原子力発電」という国策とそれに群がって利権の構造を作り出し、莫大な利潤を上げてきた電力業界を初めとする産業界への責任追及がまったくない「復興」論は、今回立地地域住民が受けた悲惨を、他の形で再び、三度生みださざるを得ないのです。

 現在、なによりも被災住民の救済がネグレクトされています。被災住民へのヒバクの強要や全省庁をあげてのリスク・コミュニケーションなる口先での不満の押さえ込み、共同体の分断を引き起こす賠償のあり方や健康診断および医療のネグレクトなど。また「情報開示」を言うなら、なによりも放射線ヒバクによる健康障害についての真実が話されなくてはなりません。今いちばんに実行されなくてはならないのは、ヒバク回避であり、そのための避難者への支援です。被災者への賠償にしても加害者の東電による算定を受け入れさせる為の「原子力損害賠償紛争解決センター」を断固拒否して、被災者側に立った仲介センターを設立させなくてはなりません。これらが「人権の擁護」を標榜する弁護士の仕事ではありませんか。復興名目の政策予算や賠償金を如何に多く、迅速に国から引き出すのかを競う地方自治体の首長による「金目の取引」に、本来救済されるべき被災住民のための弁護士活動の足元が掬われていませんか。

 島「訴状」に書かれているノー・ヌークス権(No Nukes Righte)について
 被災地における放射線被曝による人権侵害は、島弁護士が理解しているようにICRP(国際放射線防護委員会)の「ALARA原則(as low as reasonably achievable);合理的に達成できる限り低く保たれねばならない」によって「保護」されている(訴状P49)のではなく、その「侵害が合理化」されているのです。ここに書かれている「合理的に」の意味は被曝防護にかける費用は原発で受ける経済的、社会的利益よりもコスト高にならないようにという意味で、「コストーベネフィット」論といわれているものです。

年1mシーベルトとの被曝許容線量を決めるに当たっては、0.05%の癌による死亡の増加がICRPによって想定されています(ジョン・ゴフマン氏によれば8倍の0.4%ぐらいと想定)。1万人が同量を被曝すれば5人が癌で死亡するわけです(ゴフマン氏によれば40人です)。ICRPの1977年勧告当時の人の死亡における値段は10万ドル~100万ドルだったので、5人X10~100万ドル、つまり50万ドルから500万ドルの範囲内での防護費用および廃棄物処分費用など分を計上すればいいとの考え方なのです。そしてその死亡率は他の死亡原因、たとえば喫煙だとか車の運転による死亡率と差のない、つまり「社会的に容認される」値だといって1mSv/yの規制値を設定したのです。「これ以下の被曝は安全」との意味ではまったくないのです。皆さん0.05%の確率的疾病発症者のなかに自分は入らないと思っているのでしょうか? 被災現地住民は、(1mSv/yから20mSv/yのところにも住まわせようとしているのですからもっと確率の高い)いわゆるロシアンルーレットの最中に置かれているのです。これほどの人権侵害はありません。

 ICRPは核被災地における被曝状況を「緊急事態期」、「収束後の復旧期」、「平常時」の3つに分けて被曝管理量の目安をそれぞれ、20~100mSv、1~20ミリSv、1ミリSv以下としています。今、日本政府は地元自治体の要請にこたえる形で20ミリSv/y地域で住民の帰村を図っていますが、実は、いまだに「緊急事態期」の規定を解いていないということなのです。被曝被害という人権侵害は被災地において非常に深刻です。

 下級審においていくら原発事故を原因とする人権侵害が憲法違反に該当すると認定されても、最高裁において「統治行為論」の論理で、憲法より上位に位置する「安保法体系」が優先する判決、つまり「(人権侵害を引き起こす事態があったとしても、国の安全保障に関わる高度に政治的な行政の行為については)判断しない」という判決を許してきた日本の司法界と「日弁連」自体が問われているのです。既に「安保法体系」の存在自体が広く世間に周知され(たとえば『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』矢部宏治著、集英社など)、「属国日本」が認識されている時代です。それに疑義を発する訴訟でなくて、何の意味がありますか?

 原発メーカーの製造物責任を免責させているのは、世界の原発推進側にとってのアキレス腱なのです。もちろん平時に民間を組み込む意図の下に軍事機密を解除し、不完全で危険な核技術を拡散させざるを得なくなったのは核兵器開発におけるソ連というライバルの出現への対応策であったのですが、その民間企業に製造物責任を免除せざるを得ないのは資本主義社会の商品生産においては倫理性の欠如となるのです。原発技術・核技術が決して人類にとって安全なものではないことの絶対的証拠であり、企業にとっても決してペイする事業ではないことの証拠なのです。この紛れもない証拠を突きつけて核の廃絶を権力者側に迫ることこそが社会において正義を実現することではないでしょうか。福島核災害という人類の滅亡をも予感させる事故の進行を眼前にしてなお核兵器の保持を正当化しようとする権力者に闘わずして跪いてどうするのですか。
     
 とにかく私たちNNAAが依頼した訴訟とはそういう内容のものです。それを「NPT体制には触れるな」「植民地主義とは言うな」、単に原発メーカーの製造物の欠陥をあげつらった訴訟として限定し「精神的損害としての100円」を求めたとしてもどんな意味があるというのでしょう。人権侵害については憲法に抵触するとは下級審において幾度も認定されています。上級審、最高裁において全てが覆されているのです。島弁護士では担いきれる訴訟ではありませんのでさっさと辞任すべきです。私たちNNAA の提起する訴訟に賛同して集まった原告、サポーターによる「訴訟の会」をそんな腰抜けの訴訟母体にしようなんて思うべきではありません。それが「乗っ取りを許さない」という意味です。

 以上がこの間の「混乱」の核心的論点であり、「乗っ取り」の意味だと私は思います。
島弁護士は最初は実質的に進められている国際連帯の現実を見て、自分の地である「環境保護運動」や「エネルギーシフト」運動に利用できると思っていたのかもしれません。伊倉、河合などの弁護士との論議を通じてお互いの地が相互浸透し、崔事務局長による反NPT体制の主張を「妨害物」として意識し始めたのだと思います。

 しばしば非難される崔事務局長の「植民地主義」ですが、「NPT 体制」が強大国による「従属国」に対する収奪の為の治安維持装置として機能していることを考えれば(「合意された強権の行使」という形)、さらには「一方的な自由使用が認められている広大な米軍基地の存在」を考えると、「植民地主義」という規定も間違いではないと思います。もちろんこの場合は「米国による日本の植民地支配」ということです。

 追伸
 福島核災害の現実を真摯に直視するなら、「安保法体系」に触れない形での事実認定と憲法判断だけにおいても、廃炉につながる判決が書けることを証明した判決が出されています。
 「原発メーカー訴訟」弁護団に名を連ねている笠原弁護士が関係した福井地裁「大飯原発差し止め訴訟」の一審において樋口英明裁判長が真っ当な判決を下してくれました(5月21日)。ただ「人格権は憲法上の権利(13条、25条)」といいながら、“わが国の法制下においては”が強調されているように見えるのが気になりました。上級審における「安保法体系」に基づく差し戻し判決に対して身構えているような雰囲気を感じたのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(引用)
主文
1、はじめに  
個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条、25)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはで きない。したがって、この人格権とりわけ生命を守り生活を維持するという人格権の根幹部分に対する具体的侵害のおそれがあるときは、人格権そのものに基づいて侵害行為の差止めを請求できることになる。人格権は各個人に由来するものであるが、その侵害形態が多数人の人格権を同時に侵害する 性質を有するとき、その差止めの要請が強く働くのは理の当然である。
2、福島原発事故について
3、本件原発に求められるべき安全性
 原子力発電所は、電気の生産という社会的には重要な機能を営むものではあるが、原子力の利用は平和目的に限られているから(原子力基本法2)、原子力発電所の稼動は法的には電気を生み出すための一手段たる経済活動の自由(憲法221)に属するものであって、憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置かれるべきものである。
原子力発電技術の危険性の本質及びそのもたらす被害の大きさは、福島原発事故を通じて十分に明らかになったといえる。本件訴訟においては、本件原発において、かような事態を招く具体的危険性が万が一でもあるのかが判断の対象とされるべきであり、福島原発事故の後において、この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しいものと考えられる。
4、原子力発電所の特性
5、冷却機能の維持について
6、閉じ込めるという構造について(使用済み核燃料の危険性)
7、本件原発の現在の安全性
8、原告のその余の主張について
9、被告のその余の主張について
 他方、被告は本件原発の稼動が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている。このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが 国富の喪失であると当裁判所は考えている。
 また、被告は、原子力発電所の稼動がCO2排出削減に資するもので環境面で優れている旨主張するが、原子力発電所でひとたび深刻事故が起こった場合の環境汚染はすさまじいものであって、福島原発事故は我が国始まって以来最大の公害、環境汚染であることに照らすと、環境問題を原子力発電所の運転継続の根拠とすることは甚だしい筋違いである。
10、結論
(引用終わり)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「地震動」評価や使用済み核燃料プールの危険性の指摘など、省略した箇所における判断も実に明快なものでした。ぜひ要旨全文を一読されることを薦めます。ただ原告資格者を250km以内居住者とした線引きについては疑問を残します。放射性核子の拡散状況は大気の動き次第です。さらに「差し止め」ではなく「廃炉」にまで踏み込んで欲しかったです。裁判は与えられた与件としての争点に答えるしかないのだとは思うのですが・・・。

 あまりにも見事な司法判決であり、日本の裁判判決としては異質なので、米国は「ネオナチ的」な安倍政権の日米合同委員会を介した行政的コントロールをあきらめて、司法の権威を取り戻させて、司法によるコントロールを考えているのかもしれません、との説まで出てきました。私は、孫崎享さんではないですが、スキャンダルが出てきて、退陣に追い込まれるのかなと思っています。以上だいぶ長くなりましたがよろしく検討ください。




                    

0 件のコメント:

コメントを投稿