2014年4月27日日曜日

チェルノブイリを忘れるなーフランスからの便り

チェルノブイリの事故は1986年4月26日、えっ?28年も経っているんですね。スリーマイルズは1979年、そし福島は2011年、これに懲りずまだ原発輸出を続けよう、原発は安心だというのですからこれは絶対におかしい、飛行機事故に例えて事故を乗り越えて改良すればいいということではないのです。

原発は小出裕章さんが喝破したように核兵器です。核不拡散、核兵器の廃棄が唱えられていますが、これは核を保有する5ヶ国を例外として、他の国には核兵器を持たせないことを前提にしたものです。これをNPT体制といいます。核兵器の縮小を議論しながら原発輸出は進めるというのはおかしいのです。核兵器と核発電(原子力発電と日本ではまやかしの言葉を使いますが)は一体です。核発電で作られたプルトニウムで核兵器を作るからです。

核による放射能の恐怖から免れて生きる権利は人間の基本的人権として受けとめられなければなりません。それは核兵器であれ、核発電であれ同じです。いつ事故が起き放射能に怯えるというようなことは許されてはいけないのです。それが私たち原発メーカー訴訟で訴える「No Nukes Rights」(ノーニュークス権)です。基本的人権とは人が持つ天賦の権利であり、国家の動向によって左右されるものではありません。即ち、民族・国籍にかかわりなく人は、その権利を要求することができ、国家はそれを保証しなければならないものなのです。

国民国家というものは絶対的な存在ではありません。日本は日本人だけのものではないです。日本という国には様々な民族、国籍の人が住んでいます。私を含めて日本で再び原発事故が起きれば、民族や国籍に関係なく人はすべて恐怖に曝されます。だからこそ、人は「民族、国籍を超えて協働して社会を変革」しなければならないのです。上野千鶴子は新著『上野千鶴子の選憲論』(集英社新書)でそのことをものの見事に記しています。

ところが国家というものは国際的なシステムですから、国籍を問題にし、固有の文化なるものを強調してナショナリズムを喚起し、国を守るためには他国の者を殺すことを当然視します。国家を絶対視する以上、NPT体制の枠から逃れることは原理的にできません。核兵器による安全保障という枠を国家は揺るがせない基準とするからです。日本はアメリカの核の傘下にいます。だから民主党の原発をなくすという方針はいとも簡単にアメリカから葬り去られたのです。原発をなくそうという日本人が6割を超える日本や台湾においても、再稼働や原発建設を言明する人たちが政権を取っています。私たち市民が国際連帯運動によって反核を実現しなければならない根本的な理由はここにあります。

ということで、今日は原発メーカー訴訟の原告で、林義雄さんへのメッセージにも参加された杉田くるみさんが、フランスのリヨンで行われたチェルノブイリのアニバーサリーの様子を伝えてくださいましたのでご紹介します。私たち原告だけでも世界39ヶ国、4000人を越えるのです。もっともっと国際連帯の輪を拡げて行きましょう!


崔さん

以下、FBにアップした記事と写真を送らせて頂きます。
ご参照ください。

今日はチェルノブイリのアニバーサリーで、リヨンのテロー広場からベルクール広場のウクライナ領事館まで歩きました。リキダトールの葬送行進ということで、段ボールでつくった棺桶をかつぐ人たちのあとを行進しました。どんなんかなーと思っていたのですが、棺桶に写真が貼ってあるので一気にパーソナライズされるというか、胸を打たれました。すごい若い人の写真もあります。
ウクライナ領事館の前にシンボルの棺桶を並べます。
送られている言葉のひとつ
日本にも言っている、ベルラド研究所のネステレンコさんの言葉です。
「ヨーロッパの人たちは、自分の命と引き換えに原子の大災害から守ってくれた100人ほどのリキダトールとその家族に限りない感謝を捧げるべきだと私は思います。」
同じ言葉が福島の原発労働者の皆さんにも当てはまると思います。
自分の健康と引き換えに世界を守ってくれている日本のリキダトールの皆さん、チェルノブイリのリキダトールの運命をたどらせてはならないと思いをあらたにしました。

杉田くるみ




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