2012年4月4日水曜日

『反原発の思想史』を読んで


朝日新聞の書評欄に、「論争的な一冊だが、本書を経ない反原発論は、今後成立しないだろう。」というめずらしく断定的な意見が載っていたので、『反原発の思想史―冷戦からフクシマへ 』を購入して読んでみました。

私は著者の絓秀実(スガ・ヒデミ)の博識ぶりと、多彩な情報網からくるその情報量の多さとそれを体系的に整理した「技量」には驚きました。しかし研究書ではなく、著者の断定の根拠がどこからきているのかはわからず、ただ彼はそう思っている、そう考えたということが書かれており、恐らく書かれた当事者は反論したいと思うでしょう。私はただ、なるほどそういうことだったのかと頷くことが多かったということを正直に記します。

評者の中島岳志は簡潔にこの本を論評・紹介しています。参考までにそのまま載せますので、お読みください。おそらく一般の読者と私との違いは、著者がキーワードにする「1968年」にあるように、新左翼に対して「ナショナリズムと民族差別」の告発を華青闘の在日中国人がやったように、私は在日朝鮮人として戦後の日本社会、日本人に対する告発をしてきた当事者だという点にあるでしょう。

私たちが朴鐘碩の日立闘争を展開していた時、華青闘の告発を受け自己批判した各党派が日立闘争にも多く関わっていました。私は大阪に住む、華青闘のリーダーの一人とも会っていました。しかしそのとき、私たちは
あまり深い、つっこんだ話しをしませんでした。

この本の中では、新左翼を告発した華青闘がその後どのような運動をしてきたのかの記述はありません。ただ、
保守的な立場に立つ呉智英が華青闘の一人と親しく、亡くなったときに葬儀委員長までしたというエピソードが書かれているだけです。日本社会を68年に糾弾した華青闘はその後、どのような運動をしたのか、ましてや原発についてどのような見解を持ちどのような運動をしているのかは全く記されていません。著者はそんなことにはまったく関心がないように見えます。

しかし私たちはそういうわけにはいきません。日本社会を告発、糾弾した当事者として自らはどのような生き方をしてきたのか、これは当然、問われなければならないことです。しかしそのことを語ることは、この40年以上の自らの生き方、歴史を語ることになります。関心のある方には私や、日立闘争当該の朴鐘碩が記した論文などを読んでもらうしかありません。崔勝久・加藤千香子共著編『日本における多文化共生とは何かー在日の経験から』(新曜社  2008)参照。

東日本震災を「在日」としてどのように捉えるのか ―地域変革の当事者としてー
http://www.oklos-che.com/2012/02/blog-post_22.html

「在日」作家、徐京植のNHK番組を観てー『フクシマを歩いて・・・私にとっての「3・11」』
http://www.oklos-che.com/2011/08/blog-post_31.html

参考文献:「「民族差別」とは何か、対話と協働を求める立場からの考察――
1999年「花崎・徐論争」の検証を通して――」(『ピープルズ・プラン』52号、2010)

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反原発の思想史―冷戦からフクシマへ [著]絓秀実(すが・ひでみ)
[評者]中島岳志(北海道大学准教授)  [掲載]2012年03月11日  

著者:絓秀実  出版社:筑摩書房 価格:¥ 1,890

■近代にとどまり超克できるのか

戦後日本の反原発論は多様な展開を見せてきた。著者はかつてと同じ隘路(あいろ)に陥らないために、反原発の歴史をたどる必要性を説く。

著者が強調するのは「1968年」の重要性である。以前の反原発運動は地域住民運動であり、反戦反核運動として闘われたため、原発それ自体を否定するロジックは脆弱(ぜいじゃく)だった。しかし、68年をピークとする全共闘以降の新たな主題設定により、運動は「大きな物語」を獲得し、新展開を見せる。

著者が注目するのは、70年の華僑青年闘争委員会による告発である。華青闘は「日本の新左翼に内在する、ナショナリズムと民族差別」を告発し、一国主義的な「戦後民主主義」の欺瞞(ぎまん)を批判した。

「戦後」を懐疑的に捉えた左派は、アジアへ目を向け、毛沢東主義に可能性を見いだす。彼らはそこに、近代を乗り越える意思を発見した。伝統的で土着的な価値が掘り起こされ、ユートピア的コミューンの可能性が想起された。彼らは近代科学を批判し、毛沢東思想の中に反原発の契機を見いだした。この毛沢東の「美しい誤読」が、オルタナティブな世界観と合流する反原発の思想潮流を生み出したという。反原発は、80年代にはエコロジー主義とつながったニューエイジ思想と結びつき、サブカルチャー的展開を見せる。

高木仁三郎は毛沢東へのシンパシーをもとに、エコロジカルな反原発論を開始した。彼は宮沢賢治に思いを仮託し、自然・宇宙との有機的つながりを説いた。そこには市民科学者としての原発批判と共に、近代の超克への志向が垣間見えた。しかし、著者は断言する。「宮沢賢治は『福島』以降のシンボルたりえない」。「われわれは、あくまで近代に踏みとどまるべきであり、そうすることしかできないのだ」

3・11以降、「素人の乱」が主催するデモが活況を呈した。著者は、そこに可能性を見いだしつつ、反原発と反新自由主義を両立させる困難を指摘する。クリーン・エネルギーというベンチャーのように、反原発は新自由主義と合流し、旧第三世界における原発増加を推進しうる。かつて華青闘が告発した一国主義に、反原発運動が陥る危険性があるのだ。

近代にとどまりながら、原発を超克することは可能なのか。著者は資本主義の否定に出口を求めるが、その具体的方策は脆弱で、安易な解決策は存在しない。

日本における反原発論は、新たな段階に入った。今後のヴィジョンを見定めるためにも、我々は過去へと遡行(そこう)することで前進しなければならない。論争的な一冊だが、本書を経ない反原発論は、今後成立しないだろう。我々が立っている場所こそが問われている。

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