2012年4月17日火曜日

「在日」である私が佐野眞一の『あんぽん 孫正義伝』を読んだ感想


佐野眞一の『カリスマ―中内功とダイエーの「戦後」』や、『甘粕正彦 乱心の曠野 (新潮文庫)』を読んでいた私は、佐野眞一が孫正義を書いていたので(週刊ポストに連載していたことは電車の広告で見て知っていました)、機会があれば読んでみようと思っていました。

しかしなんとなく気が進まなかったことは事実です。私は正直、何冊かの孫正義に関する本を読み、完全に関心を失っていました。徳川幕府のように300年続くソフトバンクグループを作りたいというような発言から、ビジネスとして成功はしたが、思想として、哲学として見るべきものはないと思っていました。ユダヤ人マルクスが『ユダヤ人問題を論ず』で書いていた内容が頭にありました。

その孫正義を見直したのは、原発事故を目にして「心から反省」するという言葉を発したユーチューブを観たり、被災地のでの一連の発言内容を知ったからです。勿論、同じ「在日」であるとか、本名を使っているとかという次元でのことではありません。
孫正義の発言に注目―「心から反省」
http://www.oklos-che.com/2011/04/blog-post_14.html

佐野眞一はこの本に自信があるようで、「あとがき」で、「人間を描く場合、その人物が絶対に見ることができない背中や内臓から描く。それが私の人物論の基本流儀である。いささかの自負をこめて言えば、孫正義をテーマにしてこれまで書かかれたどの本より、本書は百倍は面白いと確信している」と記しています。最後の章では、孫正義と最後のインビューをした後、ばったりとトイレの前で会い、「佐野先生の取材力はすごいですね」と言われて「最大のエール」と受け留めており、そこからも著者の自信のほどが伺われます。

しかし私には人物として、ダイエー中内を描いたノンフィクションの方がはるかに読みごたえがありました。この「孫正義伝」は、著書が記すように、何度か言及される梁石日の 『血と骨』のようなもので(事実、「あとがき」で佐野は、「これは私なりの在日朝鮮人論であり、孫一族の「血の骨」である」とあります)、孫の人間性にまで肉薄したものではありません。

むしろ佐野は、孫正義のアメリカ依存、ネット依存に反発しており、30年後、紙媒体は一切なくなるという孫正義の発言にもげんなりしているような書き方をしています。佐野が前半部分で触れる、孫の「うさんくささ」は孫の問題点を暗示するようでいながらそこでの議論に進まず、あくまでも孫正義の背景(在日としての歴史と、在日の置かれてきた社会実態)に焦点を当て、それを孫一族(母親の一族を含めて)に焦点を絞り切る手法をとります。

そして彼の感じた孫正義への「うさんくささ」は、戦後日本の高度成長から完全に取り残された在日の生活実態の「その絶対に埋められないタイムラグこそ、おそらく私たち日本人を孫にいかがわしいやつ、うさんくさいやつと思わせる集合的無意識となっている」と結論づけます。

孫正義の父親の「安本三憲」に佐野はおおいなる関心を抱き、おそらく日本人読者からすればとんでもないと思われるような、しかし私の世代の在日であれば身の傍に必ずいるような人物を追い、母親の一族の歴史を含めたところで、孫正義はまさに在日の歴史の中で生まれた、そのような環境のなかでこそ生まれた人物として描きます。従って佐野は孫正義の「武勇伝」にでるような成功談にはあまり関心を示さず、最小限のところに抑えています。

孫正義の成功は、「コンピュータ―という”黒船”に最も豊かな感性が豊かな思春期に遭遇した僥倖」と、「選球眼がすぐれたギャンブラーだったから」であり、「孫正義は自分でも知らない朝鮮民族のDNAに突き動かされている」と著者は見ます。ここがこの本の面白さであり、同時に物足りなさです。

小学館の、おそらく「佐野チーム」がいろんな情報を集め、そこで出会った人から著者は孫一族の背景を読取り、組み立てます。孫正義本人も知らなかったような歴史に触れ、孫の背景を彩ります。そして最後に孫正義がソフトバンクとして100億円出し、個人でも10億円出して脱原発を主張するのは、彼の両親の歴史がいずれも日本の炭鉱労働者として働き、特に母方の祖父と炭鉱で亡くした伯父の歴史と絡み合わせて、日本のエネルギー政策に関わることは孫正義の「背負わされた」「運命」と著者は描きます。

著者は孫正義のことを最終章の「この男から目が離せない」で、孫が「日本を救う英雄」なのか、「稀代の怪人」なのか「迷惑男」なのかと問いつつ、「閉塞感が漂う退屈な三等国」にならないように、「孫正義よ、頼むから在日でいつづけてくれ」とまで書きます。著者は、孫正義の必要なまでに強調される日本への「愛国心」(オフィスに神棚まで置くような)と、過去を振り返らず「未来への驚異的な推力」を発揮するのは、孫の「自分自身でもわからない過去に対するその信じられない斥力」だと推測します。

いずれにしても佐野眞一の「自慢」するこの本は確かに彼の人間観、歴史観に基づいたもので概ね納得ですが、しかし「竹島(韓国名で独島)問題での日本への敵意をむき出しにしたエキセントリックな反日活動」を「民族の本性」とする書き方や、「玄界灘をはさんで二つの祖国を持つ男は、在日を毛嫌いする日本の保守的なエスタブリッシュメントに敗れ去って”故国”に尻尾を巻いて逃げ帰るのか」というところに、私は佐野眞一の限界を見てしまうのです。

父の絶頂時代、外車に乗り、心斎橋に店を出す
私はこの本を読みながら、自分の在日としての歴史、自分の父親、母親と(日本だけでなく、広く中国、北朝鮮、ソ連、アメリカに住む)その身内の歴史を感じざるを得ませんでした。孫の父親のあの狂気じみた熱気、集中力、手前勝手な論理、カネと女への執着、息子への溺愛など等、いつか私に父親のことが書けるでしょうか。

私の父親と私、それに息子、孫で4世代になります。「崔家」の狂気は続くのか、途切れるのか、昇華されていくのか私にはわかりません。しかしそれを見届けたいという思いは強くあります。私自身がこれからどう生きるのか、それを含めてです。

両親の結婚式の写真、母は満で17歳
私の「毒気」は崔家の血による「狂気」なのか、在日の歴史が作りだした個性なのか、あくまでも私個人の性格なのか、私は自分でもよくわからないのです。

ブログの読者は世界中に広がっていますが、数年前に書いた「個人史ー私の失敗談」を知らない方が多いと思い、改めて公開します。私の展開する運動やそれを支える考え方を知る一助にしていただければ幸いです。

個人史―私の失敗談(その1)
http://oklos-che.blogspot.jp/2010/09/blog-post_64.html

個人史―私の失敗談(その2、スクラップの時の思い出―娘の事故)
http://www.oklos-che.blogspot.jp/2010/09/blog-post_23.html

個人史―私の失敗談(その3、レストランを始める)
http://www.oklos-che.blogspot.jp/2010/09/blog-post_24.html

個人史―私の失敗談(その4、素人のレストラン経営)
http://www.oklos-che.blogspot.jp/2010/09/blog-post_27.html

個人史―私の失敗談(その5、お母さんたちの問題提起)
http://www.oklos-che.blogspot.jp/2010/09/blog-post_28.html

個人史―私の失敗談(その6、全てを失い新たな旅路へ)
http://www.oklos-che.blogspot.jp/2010/10/blog-post_18.html

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