2011年2月25日金曜日

25日のTwitterでの長時間の論争を公開します(その1)

25日のTwitterでの長時間の論争を公開します。

ここのところTwitterに時間をかけています。昨日のTwitterでの長時間の論争を公開します。お相手は仙台の文化人類学を専攻する沼崎一郎さんという大学教員です。4時間にわたったTwitter討論にお付き合いくださった沼崎さんに感謝です。ありがとうございました。

かなり問題点がはっきりとしてきたと思います。なお段落にして項目をつけたのは私の判断です。「多文化共生」は当り前のように軽く言われていますが、論争を通してかなりの認識の違いがありました。

これは私たちの置かれている状況がことなる所為でもあるでしょうが、目の前の実践が乞われる状況下で一生懸命取り組んでいる人たちが、そのミクロな状況を、政府が使いだした「多文化共生」という言質で表現しているからだと思われます。

しかし「多文化共生」あるいは「多文化主義」というものは、外国人の急増という事態に対して世界の国民国家が直面している歴史的問題です。

それは大きくは植民地主義の問題として把握するべきであり、まさに「国民国家は植民地主義を再生産する装置」(西川長夫)ではないかと考える必要があると思います。

従って現場で外国人の直面する問題に誠実に対応しようとする人たちと、マクロ的に植民地主義の問題として捉えようとする私たちは対立するのではなく、外国人問題を生み出す社会構造を直視し、その変革を願うということでは同じ課題を担っていると考えるべきでしょう。

また討論を通して、「日本に住民自治がない」という認識では一致しました。これをどのように変革するかという視点のないところで、外国人問題を取り上げることは「既存社会の埋没」につながるというのが私の主張で、これは今後継続して議論を重ねていくべきだと思います。

幸い、「多文化共生」=統合」はおかしいということでは両者は同意したので、そのことの再確認と、具体的な課題について協働できればと願うばかりです。

崔 勝久

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1.「多文化共生」は名前を変えた同化政策
(沼)「多文化共生」政策が、名前を変えた同化政策として、「異」人の管理と支配に使われるだけに終わるのか、それとも、「日本社会」そのものに風穴を開けることになるのか。それは未だ分からないと、私は思う。同化支配政策にさせないための闘いを続けなければなるまい。
――「多文化共生」は日本社会の「統合」政策として出されてきています。「当事者」も参加して一緒に考えるのでなく、外国人にとっていいことは何かを、当事者抜きに専門家が発表していますね。「外国人市民代表者会議」という「政治参加」制度は、「ガス抜き」と上野千鶴子は喝破。
(沼)ガス抜きにもなってません。しかし、もっと地道な活動をしている人々もいますし、そうした活動に自治体の方が動かされているところもあります。そういう人たちは、「多文化共生」も「統合」も口にしませんけどね

2.「統合」について
(沼)最近「多文化共生」言説で、「統合」という言葉がよくでてくるが、原語の“integration”と日本語の「統合」では、語感が随分違う。原語では「統べる」という意味は薄いが、日本語ではこちらが前面に出てしまう。特に行政が言いだすと。
――行政は「統合」ということを「共生」という単語で政策を進めているということは、近藤敦さんが明確に言っています。これはニュアンスの問題でなく、実態です。外国人の政治参加を承認するという風にはなっていません。被選挙権のない参政権っておかしいでしょう。
(沼)もちろん根っこのイデオロギーに問題がないわけではないが、少なくとも「建前」としては、“integration”とは、“assimilation”でも“segregation”でもない、「和して同ぜず」の社会を作ろうというものだったはず。
――「はず」ってなんですか?観念でなく、実態を直視すべきです。誰が「和して同ぜず」の社会を作ろう」としたのですか、そこに当事者として外国人は参加していたのですか?「「共生」を批判する: 「当事者主権」とは何か?」http://t.co/3kghzpX
(沼)「統合」は「社会」の統合であり、「共生」は「多文化」の共生です。つまり、日本政府(総務省)の試みは、移民問題の脱政治化/脱国政化です。移民問題を、住民「間」の人間関係問題、「定住外国人」と自治体サービスの問題に転化しているのです。
――外国人の政治参加が認められていないのは、実は、日本人そのものが地域社会において「住民主権に基づく地方自治」になっていないから、日本人同士の対話による協働作業が保障されていないから、と私は見ています。私たちは、自ら参加して「埋没」ではなく「変革」を求めます。

3.日本に住民自治はない
(沼)日本に住民自治はありません。自治体行政は全て総務省(旧内務省)の管轄下にあり、全ての部署に中央省庁からの出向職員がおり、県警の本部長など警察庁のキャリアです。議員は、後援者の「御用聞き」であり、民の陳情を官に伝えるだけ。全て根本的な変革が必要です。
――この点は同意します。しかし往々にして外国人の政治参加の問題を権利の付与と捉え、日本の住民自治がまともでないと認識していないなかで、外国人の参政権の問題が語られています。それはいびつな日本の住民自治への埋没なのです。この点はいかがですか?

4.「社会統合」について
(沼)「社会統合」って概念が、海の向こうで提起された時にはそうだったという意味です。それが、日本に輸入されて妙なことになってるから、そう表現しただけ。
――沼崎さん、「海の向こう」ってどこですか、オーストラリア、カナダでも「多文化主義」の概念そのものが批判されています。塩原良和『変革する多文化主義ーオーストラリアからの展望』は読まれましたか?西川長夫さんは?つまり国民国家の本質問題として提起されているのです。
(沼)ヨーロッパです。それから、私は「建前」を問題にしています。「建前」も重要だと思ってますから。実態は、もちろん、あなたの仰るとおりです。
――ヨーロッパは「多文化主義」ではなく、統合体の中に外国人労働者を入れ込みました。「文化」「文明」はドイツ、フランスのイデオロギーです。西川長夫『国境の超え方』(平凡社2001)参照。彼らは「多文化共生」を建前としていません。むしろ固有文化を武器にした排除です。
(沼)「統合」は「社会」の統合であり、「共生」は「多文化」の共生です。つまり、日本政府(総務省)の試みは、移民問題の脱政治化/脱国政化です。移民問題を、住民「間」の人間関係問題、「定住外国人」と自治体サービスの問題に転化しているのです。
――「転化」しているの主語は「日本政府」ですか。地方自治体は?「多文化共生」は「日の丸」「君が代」推進と一体化されているのですよ、何の疑問もなく。実態として外国人を「二級市民化」しています。移民問題は「二級市民化」で、その批判を「同化」としないでくださいね。
(沼)もちろん「転化」の主語は日本政府ですよ。

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