2010年9月16日木曜日

個人史―私の失敗談(その1)

斎藤(私の父親―崔仁煥の通称名)はカレーショップやジャズ喫茶などを経営する事業家としても成功、終戦後のミナミを代表する「顔」の一人になった。だが、経済成長のレールを猛スピードで走りだした日本社会と逆行するように、彼は店を失い、ジムからも強いボクサーは生まれなくなった。「没落」という言葉を使う崔の目には、父親の成功と挫折は在日朝鮮人が歩んだ戦後の縮図のように映ったという。城島充『拳の漂流ー「神様」と呼ばれた男 ベビーゴステロの生涯』(講談社)20頁

私の父親がどういう男性であったか、上記の引用から読者は想像できるでしょうか。私のメールやブログを読む人はアンダーグランドに近い世界のことは恐らくほとんどわからないと思います。10歳のとき一人で来日し、宝塚のトップスターを愛人としていた父は、外車を乗り回す生活をしながら全てを失ったとき、故郷の北朝鮮に帰ろうと言い出したことがありました。私はいつか愛すべき父親のことは書こうと思っていますが、時間がかかりそうです。

昨日のメールでスクラップ(鉄屑)業のことを書きましたが、それは私の義父の仕事でした。韓国の山奥から密航で日本に渡って来た彼が川崎で従事した仕事がスクラップで、それ以来無骨にもずっとスクラップ一筋の一生でした。

私は日立闘争や地域活動に精を出し、いっぱしの民族運動の活動家として全力をつくしていたときです。私は自分のやってきた運動をさらに進めようと結婚後韓国留学までしていたのですが、「在日」問題を「日本社会の歪」と捉ながら、自分の最も身近にいた義父の苦しさやその心の痛みを知ることがありませんでした。

義父の訃報を聞き私が在日韓国人問題研究所(RAIK)の主事を辞めてスクラップ屋を継ごうとしたのは自分のふがいなさを悔い、自分で義父の生きた「在日」の世界に飛び込み、そこで生きようとしたからだと思います。

私は何も知らないスクラップの世界に飛び込み、無我夢中で働きました。しかし義父の作り上げた人脈と商売の方式は根本的な矛盾を抱え、まったく展望が見えないものであるということが徐々に私にも見えてきました。お金もなく、会社をつぶすこともできず、そこから脱却する途を私は探り続けました。

これまで私は川崎での運動を基盤にして小むつかしいことを書き連ねてきましたが、ここ数回は、30代の初めから35年間どのようにして飯を食ってきたのかを思い出しながら記したいと思うようになりました。

それは成功談ではありません。私もまた、ビジネスとしてはある時期の父のように全てを失い、多くの人に迷惑をかける、恥の多き結果になりました。しかし私には、どのような時にも私を支え、私と一緒になって悩み苦しみながら励ましてくれる妻が傍にいました。

私の「在日論」は自分で悩み、歩み経験したことをしっかりと見極め、開かれた社会を求めるものです。その歩みを確実に進めるために、私はもう一度、自分の過去を振り返ります。

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