2017年10月13日金曜日

新古里5,6号機の白紙化のための韓国の教会の神学者宣言

10月12日、韓国のキリスト教会の神学者たちが、釜山に隣接する古里原発5.6号の白紙化を求める宣言をしました。これは歴代韓国の大統領が原発建設を進め、特に李明博士、バプクネ大統領になって大々的に原発の輸出立国化を宣言したのですが、そのシンボルとなったのが古里原発でした。キャンドル革命で選ばれたムン・ジェイン大統領は、脱原発宣言をして、既に工事中であった古里原発5.6号機を一時中断し、3ケ月間の市民代表により公論会で決めることとしました。しかし原発建設を求める原子力ムラはマスコミ、政治家を通して古里原発5・6号機の工事の再開を求めだしました。それに対して危機感を覚えたキリスト教会の神学者たちが宣言文をだしたのです。

韓国は全人口の4分の一を超える1000万人のキリスト教国で、教会の影響はとても大きいのです。民主化闘争を担ったキリスト教界の伝統はありますが、保守的な人が多いのもまた事実です。宣言文は聖書を引用したり、教会の信者たちに呼びかけたものであるので、教会用語が出てきますが、キリスト者でない人にも是非、お読みいただいきたいと翻訳しました。

この宣言文は韓国YMCAのスタッフがYMCAのHPにあげたものを見て、私が翻訳しました。固有名詞は私にはわからないことが多く(特に人名、学校名)、正確ではないことをおわびいたします。もちろん、この宣言文は韓国国内のキリスト者を対象にしたものですが、「世界の教会は新古里5,6号機建設の問題点を知らせ、東北アジア教会が脱核運動を重要なエキュメニカルの議題にしなければならない。」と最後に書かれており、世界の教会に呼びかけています。日本の教会は自国の原発問題にどのような態度をとるのか、そして韓国の教会にも古里原発5・6号機白紙化のためにアクションをおこすでしょうか。崔 勝久

(下の写真には、「建設中断」という文字が入れられています)


   
     新古里5,6号機の白紙化のための韓国の教会の神学者宣言

 核の亡霊が韓半島を取り囲んでいる2017年韓国の教会の神学者たちは、現在、政府が推進している新古里原発5,6号機工事の全面中断を促す。原発であれ核兵器であれ、これは現在の人類が持っている技術水準で人類の安全を保証することのできるいかなる手段も持っていないからである。

これまで政府は、1978年に古里原子力発電所の建設以来、毎18ヶ月ごとに1基ずつの速度で、これまで合計25基の原子力発電所を継続的に建設してきた。李明博政府は、2010年の原子力発電所を戦略輸出産業に指定し、2011年福島原子力発電所の惨事にもかかわらず、今後20年の間に、全世界に80基の原子力発電所を輸出する世界3大原子力発電先進国に成長するという構想を立てたし、2016年朴槿恵政府は、世界的に類例のない10期の原子力発電所が密接された古里地域の安全性の評価を適切にすることなく、新古里5,6号機の建設を許可した。

しかし、ムン・ジェイン、政府は2030年までに原子力発電所の割合を18%に下げ、再生可能自然エネルギーの割合を20%に拡大する脱核政策の一環として、新古里5,6号機の工事を6月27日に暫定的に中止した後、工事継続するかどうかを3ヶ月間の公論化を通じて決定することにした。悲しいことに、保守言論はこれに対抗し新古里5,6号機の工事中断と脱核政策を無効と糊塗する偽のニュースを作り出しながら韓国社会に論争を助長している。これに対して韓国教会の神学者たちは、韓国社会が望ましい議論を通じて、核のない世界に進むことを宣言して、高韓国教会が核のない世界を作ることに率先することを促すものである。

原子力発電は、偽りの神話である

原子力発電は、自分の存在を合理化するための多数の偽の神話を作り出した。核が無限のエネルギーと呼ばれるという主張、核は安全であると主張し、核は安いエネルギーという主張、核はクリーンエネルギーと呼ばれるという主張、核の平和的利用という主張がまさにこのような偽の神話である。

原子力発電所で使用されるウラン235は天然ウランの0.7%しか含まれていない。そのため限られたウランを採取して濃縮する過程で、多くの環境問題が発生しており、無限のエネルギーと呼ばれる根拠となるウランのプルトニウムを増殖する高速増殖炉は、まだ実現されていない技術である。  

1979年にアメリカのスリーマイル島原子力発電所の炉心崩壊、1986年にソ連のチェルノブイリ原子力発電所の惨事、1999年に日本JCO臨界事故、2011年福島原子力発電所4基の爆発大惨事などの大型の核事故を振り返ってみると、核が安全である話は全く根拠がない。米国で原子力発電が始まった1960年以降、1974年をピークに、原子力発電所の新規発注が急減したのは、原子力発電所の非経済性が明確になったからである。また、原子力発電から出てきた放射性廃棄物を保存する高レベル廃棄場の建設維持費用まで計算をすれば、原子力発電はむしろ途方もなく高価なエネルギーである。

原子力発電所の増加と二酸化炭素排出量の削減の間には相関関係がほとんどない。むしろ原子力発電所の増加がエネルギー過消費を助長して二酸化炭素の排出を増加させてきた。また、当初から原子力発電は、核兵器から始まった技術なので、原子力発電の技術を持つイスラエル、インド、パキスタン、北朝鮮などの国が核兵器を開発することができたという点で、核の平和利用という真実を隠そうとする偽りであるだけだ。これらの原子力発電の偽りの神話を核の危険性を縮小して原子力発電を継続的に維持しようとする学界、関連業界、政府省庁、政治家のコネクション、いわゆる核マフィアたちが作って拡大させてきたのだ。

キリスト教の信仰は、貪欲の産物である原子力発電と一緒にすることができない

旧約聖書ヨブ記38章で、神は「天を治める秩序が何なのか分かるのか?」とヨブに尋ねる。原子力発電が生み出すプルトニウムが放出する放射能は半減期が、2万4千年であり、少なくとも10万年の間、放射能を排出する。人間だけでなく、地球のすべての生命は、最も強力なエネルギーを放出する放射能の毒性に耐えることができない。原子力発電所は、一度つけると消すことのできない火でくぁり、そのために地上でつけてはならない天の火である。原子力発電は、「空を治める秩序」を知らない人間の傲慢であり、貪欲でしかない。人間が核を使ったのは、創世記3章の「善悪の実」を取って食べたアダムとエバの原罪行為と同様である。

核兵器と原子力発電所は、より多くのエネルギーを得るための欲からきたものであり、原子力産業システムは、エペソ2章の「空中の権威」を取った者の下僕であり、ヨブ記41章の「すべてのものの前で王の振る舞い」をする「レヴィアタン」ある。そのためクリスチャンは原子力産業体制を神の名前で拒否するか、原子力産業システムのレヴィアタンに頭を下げるのかの選択しなければならない。

原子力産業システムは、莫大な補償金と支援金で地域住民とメディアを誘惑して、魂を売るようにする。マタイ6章で、イエスは、「神と富を同時に仕えることはできない」と断固として話す。私たちは、神の創造の世界を守るためには、原子力発電を停止しなくぇればならないのだが、そうしないのは、結局、私たちのお金に対する崇拝、貪欲である。イザヤ書28章で預言者イザヤがイスラエルの指導者たちが、神に頼ることなく、大国アッシリアとの同盟関係を結んで既得権を守ろうとしたことを「陰府との契約」と批判したように、原子力発電は、私たちの安全と豊かさと生活を保証してくれない」死との契約」にすぎない。

創造の世界を守るために脱核の道を進むべきである

原子力発電は、迫ってくる神の国を、新しい天、新しい地を遮る障害物である。核のない世界のための韓国クリスチャンの信仰宣言は「神が造られた美しい創造の世界を汚染させることは、それを造られた方に対する冒涜だ」と、核のない世界に向けた世界のキリスト教の教会協議会(WCC)の宣言は、「今日のクリスチャンは責任があり、包容的なエネルギー管理人になるには公共善、創造世界の保全、そして人類の未来に大きな関心を払わねばならない」と話して原子力発電が神の創造の世界を破壊していることを警告した。神の創造の世界を守るため、来るべき神の国を迎えるため、新古里5,6号機は白紙化されるべきである。

核のない世界のための韓国クリスチャンの信仰宣言が話したように新古里5,6号機は核保有国ではなく、被爆者の目で、科学技術の観点ではなく、命の観点から、私たちの世代だけの観点ではなく、これから生まれてくる世代の観点で、人間の視点だけではなく、自然を包括する前宇宙生命共同体の観点から決定しなければならない。これが飢えた者たち、のどが渇いた者、旅人となった者、ぼろをまとった者と一緒にされた(マタイ25:31-46)イエス・キリストの教えである。十字架で成されるイエス・キリストの平和(エペソ2:14-18)は、生命と共存できない原子力発電所に基づい偽の豊かさ、偽の平和を否定することから出発する。脱核の道が、真理と生命があるイエス・キリストの道であり、(ヨハネ14:6)、神の国への道である。

原子力発電は、地球生命共同体を絶滅へと導く「死の力」(詩篇49:15)であり、「憎むべき破壊者が立ってはならないところに立つ」(マルコ13:14)のである。神の許された創造の世界の再生エネルギーを使用することは、神の創造の秩序に従う信仰の行為であり、うめく被造物(ローマ8:22)、強会った被造物の隣人になる愛の実践であり、新しい天、新しい土地を、神の国を望む道である。
イスラエルの民が出エジプトをしてカナンの地に入る前、神が「私は今日、天と地をあなた達に対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい」(申命記30:19)と言われた。核文明と脱核の岐路に立った私たちは、私の子孫が生きるために命と祝福となる新古里5,6号機白紙を選択する必要がある。聖霊神は、私たちにとって、神の意志を識別するようにし、正義と平和と喜びがあふれる神の国(ローマ14:17)で、生命の豊かさがあふれる生命の神(ヨハネ10:10)に導かれる。

韓国教会は新古里5,6号機白紙に率先せよ

WCCは正義の参加、持続可能性の観点から、核兵器と核エネルギーの倫理的省察との立場を表明してきた。 1948年第1回総会は、核戦争を「神の罪」と宣言した。米国のスリーマイル島原子力発電所の爆発事故の後、1979年に開かれた「信仰、科学、そして未来に関する世界会議」は、新規原子力発電所の建設を5年間停止する一時停止を推奨した。 1989年に開かれた<核エネルギーのWCC協議会>は、エネルギー技術を判断する3つの原則、未来の世代のために責任の原則、人間の生存と達成を可能にする正義の原則、生活に影響を与えるエネルギー選択に人々が参加するようにする原則を提示した。そして、2013年の第10回釜山総会は、韓半島では、人間の安全保障が軍事的安全保障よりも重要な優先順位がなければならず、原子力発電所と核兵器の除去を要請した。

 2014年<核のない世界に向けたWCC宣言>は創造世界の破壊の可能性に直面して、神がすべての創造物を含む契約を結ばれ、被造物を育ててられ、人類に核兵器と原子炉の致命的な火の光から自然再生エネルギーへの切り替えを、脱核、出エジプトの道を、生命を選ぶことを求めており、<韓国クリスチャンの信仰宣言>に沿って核武装国の既存秩序の安全保障ではなく、創造の世界の生命の安全を宣言し、会員教会に「正義と平和のエキュメニカル巡礼 」を一緒に残す出ようと招待した。今韓国教会がこの招待に新古里5,6号機の白紙化をなすことの応答をしなければならない。この地のすべての教会は、核文明から出エジプトする正義と平和の巡礼共同体にならなければならない。

今韓国教会の神学者たちは誇らしい韓国教会が核のない世界のための宣教的課題を継続的に実行することを促す。教会が新古里5,6号機の白紙化のために原子力発電所が安全で清潔で経済的という偽りの神話から脱神話化をなす教育に率先する。講壇で脱核が宣言されるべきで、脱核のための祈祷会を開く必要があり、市民社会団体や隣人の宗教、地域住民と一緒に脱核と新古里5,6号機の白紙化のためのキャンペーンと署名運動、法案策定に力を集めなければならない。これとともに世界の教会は新古里5,6号機建設の問題点を知らせ、東北アジア教会が脱核運動を重要なエキュメニカルの議題にしなければならない。


                        2017年10月12日


新古里5,6号機白紙を望む韓国教会の神学者一同


カン・ウォンドン(神大)、カン・ウンソプ(芸名大学院大学)、コ・ジェギル(長神大)、クァク・ホチョル(啓明)、キム・ギソク(聖公会大)、キム・ンヒョク(監神大)、キム・ドンファン(延世大)、キム・ミョンフイ(聖公会大)、John Smithなど(延世大)、キム・ソンホ(ソウル神大)、キム・スヨン(梨花女子大)、キム・ウンギュ(聖公会大)、キム・ウンヘ(長神大)、金長生(延世大)、キム・ジョンジュン(聖公会大)、キム・ジュン(監神大)、キ・ムジモク(韓神大)、キム・テヨン(梨花女子大)、キム・ヒョンドン(釜山長神大) 、キ・ムヒョンミン(湖南神大)、キム・ヘギョン(大邱カトリック大)、ミン・ギョンシク(延世大)、パク・ギョンミ(梨花女子大、キリスト教学科)、パク・ミン(釜山長神大)、パク・セナ(世宗大)、パク・スンイン(ヒョプソン大)、パク・ヨウンシク(ソウル神大)、パク・クイルジュン(ガ監神大)、パク・ジェヒョン(韓国キリスト教社会問題研究院)、パク・ジウン(梨花女子大)、パク・ジンギョン(監神大)、パク・チョルホ(韓国キリスト教学会)、ペ・ヒョンジュ(釜山長神大)、ペク・サンフン(韓長神大学校)、ソル・ウンジュ(崇実)、ソン・ヨンソプ(嶺南神大)、シン・イサン(聖公会大)、オ・ジソク(崇実)、獄長ハム(韓神)、ユン・ヨウンフン(ソンギョル大)、イ・ギルヨン(ソウル神大)、イ・ドンチュン(長神大)、イ・スクジン(聖公会大)、李・ウンギョン(監神大)、イ・ウンソン(世宗大)、イ・インミ(聖公会大学校神学研究院)、イ・ジョンベ(現場アカデミー)、イ・チャンソク(ヒョプソン大)、イ・チャンス(ソウル大)、イ・ヒャンミョン(韓神)、イ・ムスヒョン(延世大学校、大学、教会)、ジャン・パセリ(梨花女子大、キリスト教学科大学院)、ジャン・ユンジェ(梨花女子大)、チョン・チョル(韓神)、チョン・ヒョンシク(延世大)、ジョンギョンイル(新キリスト教社会研究院)、チョン・ヘジン(キリスト教女民会)、チョ・ヨンフン(南大)、チェ・グァンソン(湖南神学大学)、チェ・スニャン(梨花女子大)、ファン・ホンリョル(釜山長神大)(以上61人)

2017年10月10日火曜日

TV放映された「トモダチ作戦」の黒人弁護士と会って

10月9日、01:00~01:55 以下の番組が放映されました。
NNNドキュメント「放射能とトモダチ作戦」
https://www.youtube.com/watch?v=4Lb9Cwf8DhE
私はアメリカでこの裁判の弁護士をしているCharles A. Bonnerと会いました。私たちも40ケ国から4000人の原告を集めて原発メーカー訴訟をしているので意気投合しました。 何よりも​、​彼が私の話を聞いて大きく拍手をしてくれたのは、私が法律の上では原発メーカーには責任がないとなっているが、人権は法律より優先されなければならないということを知ったのは私が在日韓国人であるからです、という話をした時でした。

会場の全員が、スタンデイング オベーションで在日の闘いと反原発の闘いが結びついたというくだりのところでわたしたちの闘いを称えてくれました。今でもあの時の 感激は忘れられません。​原発メーカー訴訟を提起したのは在日韓国人と、アメリカの黒人であるということは大きな意味があると私はその時に確信しました。
参考までのそのときのことを記したブログをお知らせします。
2015年8月7日金曜日
3週間のアメリカ訪問を終えてー2015 Pilgrim to North America for Nuclear Free World
http://oklos-che.blogspot.jp/…/2015-pilgrim-to-north-americ…
「トモダチ作戦」で被爆した米海軍兵の起こした訴訟の弁護士と現地で会う!
http://oklos-che.blogspot.jp/2015/07/blog-post_11.html


少し言葉足らずと思っていたものですから、いい機会を与えていただきました。
IC氏よりの質問: 崔事務局長様、この投稿について勝手で恐縮ですが質問させて下さい。
①黒人弁護士との写真に十字架のネックレスをされているのはどうしてでしょうか?
②スタンディングオベーションの部分(アメリカ人はすぐにスタンディングオベーションします)と原発メーカー相手の訴訟を提起したのは在日とアメリカの黒人という事が大きな意味があるという部分はよく意味が分からないのでご説明頂ければ幸いです。

③米軍空母の乗員は米軍を訴えずに日本国と東電を訴えている。これに対する崔事務局長様のご意見をご教示頂けますか?  
                                    ①このネックレスは釜山でWCC(世界教会協議会)総会が開かれたとき私たちも参加しそのときにいただいたプレゼントです。原発メーカーの責任を問う訴訟の原告4000人のうち2500名は海外の人ですが、その大部分はこのときの総会のときに私たちが集めたのです。別に高価なものではありませんか、私はとても大事にしています。 ②日本の法律(原子力損害賠償法)は、原発の輸出国であったアメリカから要請されたものですが、その法律では、原発事故が起こった場合は原発メーカーは免責され、原発運営会社1社の責任と明記されています。韓国や台湾もほぼ同様の法律が制定されています。従って、日本の弁護士も反原発運動の団体も誰も原発メーカーの責任を追求しなかったのです。
                      
私たちは在日韓国人青年が日立の入社試験で国籍と本名を偽ったという理由で解雇された事件を裁判にして国内外での法廷闘争を展開して完全勝利したのですが、その勝利集会を川崎の在日韓国教会でひらいたときに、在日の地域住民から質問があり、法律で日本人に限定されていて、同じ税金を払う私たち在日は児童手当をもらえず市営住宅にも入れないというのは差別ではないのかという質問を受けました。それから川崎市長を相手にした国籍条項撤廃運動をはじめ、川崎の市長は法律では日本人に限定されている児童手当などの支給を外国人にも当てはめることを決定しました。
              
その経験があるものですから、私たちは人権は法律よりも優先されるという確固とした信念をもっていたのです。この話を聞いたロナルド・レーガン号で被爆した乗組員の立場から裁判を決意した黒人弁護士は、深く私たちの運動の背景を理解してくれたのです。 
    
③詳しくはわかりませんが、アメリカでは軍人が政府や軍隊を訴えるのに制限があると聞いています(どなたかご存知方は詳しく説明を補充ください)。いずれにしても東電はアメリカでの裁判に反対したのですが、よくぞカリフォルニアでの裁判を認めてくれたと私たちは感謝しています。事故を起こした責任は原発の運営会社とともに製造メーカーにもあるわけですから、米兵が彼らを訴えるのは当然のことだと思います。

2017年10月7日土曜日

突然削除した、希望の党の外国人政策に疑問

日本の国、社会を良くするのはなにも日本国籍をもって選挙を行使できる人だけではないというのが私の持論ですが、このようなことを聞くと大概の日本人の友人は怪訝そうな顔をします。私のように日本生まれで日本で教育を受け、生活する外国人は多くいます。私は昭和20年(1945年)、日本の敗戦の時に生まれました。たまたま永住権をもっていますが、永住権をもたなくても、人はどこで住もうが人間としての基本的な権利(人権)は、国籍の有無にかかわらず守られなければならないのです。
この認識が多くの日本人は実に希薄です。

ミャンマーの少数民族が迫害を受けていることじたい世界的な問題になりつつありますが、仏教徒でなくイスラム教徒であるということ、ミャンマーの言葉を話さない(ミャンマーになじもうとしない)ということがTVで流されていましたが、宗教界の指導者の一人が、彼らはミャンマーの国籍をもっていない、ということが迫害の理由にあげていました。国民国家の枠に入らないものは人権が保障されなくてもいいという考え方です。

これは実はミャンマーのことだけではありません。この国民国家幻想というのは現代社会の最大の問題だと私は考えています。日本でも同じです、憲法で人権が保証されるのは憲法に明記されているよういに日本国民だけであるという考えは強くありました(これは憲法草案段階で、アメリカが書いた草案ではPEOPLEとなっていたのを日本の官僚があえて「日本国民」と訳したというのはすでに学会では証明されている事実です。古関 彰一『日本国憲法の誕生』(岩波現代文庫))

私が学生のころ、現役の法務省の池上努という参事官が、1965年に在日韓国・朝鮮人へのガイドブック『法的地位200の質問』(1965)という著書のなかに、外国人は自国以外の他国に住む「権利」はないのである、だからどんな理由をつけても(国際法上はその理由すらいらないとされている)追い出すことはできる、国際法上の原則からいうと「(外国人は)煮て食おうが焼いて食おうが自由」なのである。」と書いていたことがあります。これは今では極端な話なように受け止められるでしょうが、今でも外国人の生活保護にたいする最高裁判決や、外国人労働者の低賃金の問題など数多くあります。

私はブログで世界の多くの人に読んでもらおうとしているのですが、最近、私がブロガーとして金儲けのためにやっている(金儲けでやって何で悪いんじゃ?)ので私のブログは読まないという馬鹿者がいました。そんなことは私のブログに広告があるかどうか確認すればすぐにわかることなのですが。私がツイターをはじめたとき、それは福島事故での直後でしたが、私は「国籍や民族を超え、協働して日本社会の変革を」と書いた時、バッシングに会いました。「クソ朝鮮人!日本から出て行け!!」とありました。

私は20代の時に日立就職差別闘争に出会い勝利し、それ以来、川崎で地域活動をはじめ国籍条項問題を提起し、実際に児童手当など外国人ももらえるようになりました。その経験を活かし、法律では原発メーカーには責任がないされていることに対して、フクシマ事故を起こした原発メーカーの責任を問う原発メーカー訴訟を提起しました(残念ながら、原発メーカー訴訟の島弁護団長は、自分の言うことを聞かない原告は委任契約を切ると言い出し、その弁護士を批判した現・元原告団の事務局長ー日立闘争の当該の朴鐘碩と私ですがーの委任契約を実際に解消し、彼への批判は名誉毀損だとして私たち二人を訴えるスラップ訴訟をはじめたので、私たち二人は金銭的にも時間的にも、実務的にも窮地に追い込まれています)。そして今は、日韓・韓日反核平和連帯という組織に属し、韓国人被爆者が米政府の原爆投下の責任と賠償を求めることを決意した韓国人被爆者を支援する国際的な運動を進めようとしています。私は日本籍をもたず選挙権はありませんが、在日の立場から日本社会をよくしたいと心から思っています。私がブログに力を入れているのはこのためです。   崔 勝久



     突然削除した、希望の党の外国人政策に疑問があります。
朝日新聞10月7日
2017衆院選
消えた「外国人参政権反対」
希望公約ー公認条件だったのに なぜ
批判受けて? 疑問や抗議の声も
小池都知事が韓国学校の敷地問題の対応や、関東大震災の朝鮮人虐殺に触れなかったことからして、希望が公認予定者の結ぶ政策協定書に外国人地方参政権への反対を明記したことは意外ではありませんでした。小池らしいのです。しかし今回の6日に発表された希望の公約と政策集には「外国人の地方参政付与反対」が盛り込まれなかったのではなぜでしょうか?

私は小手先の選挙用の戦術とみます。自公と自由党は既に連立政権の合意で永住外国人の地方選の投票権を認める法案を提出しました。しかし審議は進んでいません。自公との差別化のためにとってつけたように、希望は原発の30年の撤廃や消費税反対を言い出しましたが、民進党と合流した希望の党が野党なのか定かではありません。自公との差別化のために希望はいずれ、あらためて外国人参政権反対を持ち出すだろうと思います。

南京事件はなかったと言う名古屋市長、日本軍慰安婦少女像をサンフランシスコ市が認めるのであれば姉妹関係を解消すると言って世界中からバカにされた大阪市長、そして東京都の前・現首長は揃いもそろって慰安婦問題、戦争責任に対してかくも世界に通用しない馬鹿者なのか、なぜそのような人が首長に選ばれるのか、私は実は理解に苦しんでいます。

私は共産、社民と組む立憲民主党への期待が高まるのを当然としながらも、一定の留保をして以下の4点を明らかにしてほしいとFBに出しました。
①北朝鮮との対話を進め国交樹立・賠償金の支払いを認めるのか
②日本軍慰安婦問題の日韓政府合意に反対する韓国の動向に理解を示すのか
③外国人へのヘイトスピーチを含めるあらゆる差別を禁止する法律を作るのか
④外国籍公務員の差別を制度化した「当然の法理」を見直すのか
ここには触れていませんが、朝鮮学校にたいする現政府の差別政策をどうするのかという問題もいれるべきだったですね。
与党及び希望に対抗する共産、社民と立憲民主党が排外主義を廃し、まともに戦争責任を受け止め明確な、世界に通用する歴史観をもった政党として政権を運営できるようになることを願います。

2017年9月30日土曜日

小出裕章:「私は喜んで非国民になろうと思う」

安倍政権の北朝鮮の脅威を強調し、対話をぜず、圧力をかけ続けることを国策にすることに対して、小出さんはそれは厳しく批判する主張を展開されています。原子力の専門家としての適切なご意見だと思います。多くの人が共鳴されています。
   朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核をどう見るかー小出裕章
   

オリンピックをだしにして福島の悲劇を放置する国の政策を批判する者を「非国民」とするとのであれば、「私は喜んで非国民になろうと思う」とまで書かれている小出さんの文書を読みました。皆さんにご紹介します。   崔 勝久

       小出裕章:「私は喜んで非国民になろうと思う」
       「東日本大震災から6年ー無法と棄民の国」
         (9条連ニュース9月27日 No.273より)

国は、一度は避難した人々に対して曲がりなりにも行ってきた住宅支援を打ち切り、汚染地に帰還せざるを得ない状況に被害者たちを追い込んでいる。多くの日本人は忘れさせられているが、原子力緊急事態宣言は、今もまだ解除されていない。
(参考までに:「マスコミは何も言わないけれど、今は「原子力緊急事態宣言発令中」なんです。安倍さんが解除宣言できない理由とは?」(「お役立ち情報の杜)http://useful-info.com/
(中略)
結局、この日本という国は今後百年たっても原子力緊急時代宣言下にあり続ける。
それほどの被害を出しながら、加害者である東京電力も国も誰一人として責任を取らず、処罰もされていない。彼らは、どんな悲惨な被害をだしても処罰されないことを事故の教訓として学び、、今は止まっている原発を再稼働させ、海外に輸出するという。
彼らは、今後ますますマスコミと教育を使い、人々から福島事故に悲劇を忘れさせようとする。彼らは人々をオリンピックに誘導し、オリンピックに反対する者は非国民と言われるようになるだろう。
しかし、フクシマの悲劇を放置したままオリンピックが大切であるというのであれば、私は喜んで非国民になろうと思う。




2017年9月29日金曜日

東京弁護士会への公開書簡ー吾郷健二

吾郷さんは原発メーカー訴訟の弁護団長の島弁護士を解任した本人訴訟団40人のメンバーの一人です。島弁護士の原告の意向を蔑ろにする言動に対して東京弁護士会に懲戒申請をした、19名のうちの一人でもあります。詳細な証拠資料とともに提出された懲戒申請書に対して、島弁護士が属する東京弁護士会は会長名で、島弁護士の言動に問題があることを認めながら、懲戒申請には値しないという判断をしました。

どのような懲戒処分をするのあるいはしないのかの判断は仲間内ですから、それなりの配慮があったかもしれませんが、問題はその判断根拠です。弁護士が原告団の人事に介入することは許されるのかという原則や、個々の事実判断もさることながら、東京弁護士会は、弁護士職務規程に明記されている原告と弁護士との委任契約の締結を島弁護士が履行しなかった規則違反を肯定し、東京地裁が訴訟委任状には原告の捺印が必要と法的根拠を示して指示したことを島弁護士は無視し、それを東京弁護士会は支持しているのです。これらは弁護士としてあってはならない行為であり、弁護士会が支持するべきことではありません。19名の本人訴訟団(選定当事者)は、東京弁護士会の上部団体である日本弁護士連合会(日弁連)に異議を申出ることになるでしょう。        

吾郷さんは丁寧に一つ一つ東京弁護士会のあげた「根拠」について反論しています。島弁護士を盲目的に支援する原発メーカー訴訟原告団は懲戒申請の内容、島弁護士の短い回答、東京弁護士会の判断を読むことなく、島弁護士を懲戒申請したということだけを取り上げて私たちを批判しています。まずは吾郷さんの公開書簡をしっかりと読まれれば、誰でも東京弁護士会の島弁護士を擁護する根拠が薄弱、ないしはあやまっているというということを理解されるでしょう。  崔 勝久

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吾郷健二です。

東京弁護士会宛の島弁護士に対する我々の懲戒請求が認められなかったことはすでにご承知のこととと思いますが、私は、これに対し、9月11日付けで、東京弁護士会会長と同綱紀委員会第一部会部会長に宛てて、その「決定」理由書に対する批判を書いた書簡を送りました。形式は私信ですが、性格としては公開書簡のような内容ですので、ここに公開します。

東京弁護士会会長 渕上玲子殿
東京弁護士会綱紀委員会第一部会部会長 海野浩之殿

 平成28年東綱第129号 懲戒請求議案(被調査人島昭宏)「決定書」の件

2017年9月11日
懲戒請求者 吾郷健二

 平成29年7月28日付け表記「調査結果の通知」の件につき、書簡を差し上げます。

 「決定書」を拝読しましたが、全く納得いきませんので、必要最低限のことを申し述べたいと存じます。この書簡は、私個人の責任において書かれたものであり、第一部会のメンバー全員にコピー配布してくださることを要望します。

 貴弁護士会の表記「決定」に対する正式の異議申し立ては、別途、懲戒請求者全員の討議に基づいて、代表者の名前において、日本弁護士連合会に提出されるものとお考えください。

 以下、本論に入ります。

 被調査人を懲戒しない決定を下した理由が「決定書」で6点にわたって述べられていますが、それらに対する私の意見を申し述べさせていただきます。

 まずその理由1について。
 ここでは、私たち懲戒請求者が提出した懲戒請求事由1の(12)、(13)、(14)が取り上げられていますが(それ以外についてはほとんど無視されていますが、そのことについては述べません)、それらの理由は全く納得できるものではありませんが、あえて、それらにも触れません。と言って、完全に無視するわけにも行きませんので、1点だけ簡単に述べます。

 例えば(12)について。
 貴「決定書」では、ここは、「訴訟開始の遅延の原因は(訴訟委任状における)押印の不備(押印がなかったこと)ではなく、当事者の特定に十分とは言えない訴訟委任状の記載が原因であったと推認される。」がゆえに、「被調査人が原告団事務局に協力を依頼したことは不当とは言えない。」で終わっています。これは、端的に言って、懲戒しない理由の説明になるのでしょうか? 分かり易く言いますと、綱紀委員会自身が要約している懲戒請求者の文言「裁判所から、押印した訴訟委任状の提出がなければ本人の確定ができないと指摘されて、新たな訴訟委任状を集めるための作業を訴訟の会事務局が行わざるを得なくなって、原告の確定に1年以上の期間を要することになり、訴訟の進行が遅延したにもかかわらず、被調査人は事務局に責任を転嫁し、反省することも謝罪することもない。」に対する「懲戒しない決定」の理由(つまり解答)になるのでしょうか? 

 法律専門家及び代理人としての弁護士の役割は素人(原告やその集まりである訴訟の会事務局)に対して適切な法律実務面での指導をして、原告に余計な負担を科したり、その混乱を招いたり、しないようにすることが職務上の義務として要請されるのではないでしょうか? 結果的に適切でなかったことが判明した被調査人自身の指導(「押印は必要でない」)が事務局に混乱と大きな負担を科したことに対して、まともな人間であれば、「ああ、大変な負担をかけてごめんなさいね。今度からはもう少し慎重にやるからね。」と「反省や謝罪」を言うのが普通ではないでしょうか? 

 ここでの本質的問題は、余計な負担をかけたことではなく(事務局はそのこと自体に文句を言っているわけではなく、ミスは誰にでもあることだから仕方のないことだと受け入れている)、被調査人が「同じ状況になればまた同じことを繰り返すと公言」して開き直り(あるいは居直り)、一切の反省も謝罪もしていないことであって、それは弁護士として叱責に値するのではないか、ということなのです。それを「事務局に協力を依頼したことは不当とは言えない」などと言って、問題(論点)をすり替えて、平然としている綱紀委員会第一部会のメンバーの精神構造(あるいは頭脳構造?)は私には理解不能です。

 それにそもそも、「訴訟開始の遅延の原因は押印の不備ではなく、当事者の特定に十分とは言えない訴訟委任状の記載が原因であったと推認される。」などと何を根拠に「推認」(つまり断定)されるのでしょうか? 私には、両方の理由が訴訟遅延の原因であると「推認」することが正しいと思われるのですが、なぜ、一方の理由だけが原因であると根拠もなく断定されるのでしょうか?

 もし、押印の不備がなければ(言い換えれば、被調査人の代理人・弁護士としての誤った指導がなければ)、すなわち委任状の記載の不備だけが原因であったのであれば、それをカバーする事務局の作業はもっと簡単で、混乱も少なく、もっとスムーズに進行していたであろうし、そもそも、そのことで事務局が被調査人に不満を抱き、その責任を問うこともなかったであろうと思われるのですが、渕上様、海野様のお二人はこの点、いかが思われるのでしょうか?

 その理由2について。
 ここでは、私たちの懲戒請求事由1の(1)ないし(12)が取り上げられています。(12)についてはすでに簡単に述べましたので、ここでは(1)について主に触れます。
 貴「決定書」は、被調査人が「民族差別、在日差別等を取り上げて活動する崔氏の訴訟の会における言動を制限しようとした」ことは認められるとしつつも、それは、被調査人の、幅広い「社会的共感を得て、(脱原発の)運動を広げるために訴訟の会から発信する情報を原子力問題に限定すべきであるとの思いから」崔氏の活動を制限しようとしたもので、「崔氏の人格を否定する意図も、関係者を侮辱する意図もなかった」と「認定」している。

 そして「決定書」は、他方で、被調査人の常軌を逸した言動が、「一部の原告」に「被調査人の弁護士としての品位に疑問をもたせた」ことを認めているのですが、結論的には、「4000名に及ぶ原発メーカー訴訟を遂行し、かつ社会的共感を得て運動を広げていきたいとの思いで被調査人が発信した投稿であること、崔氏や朴氏ら関係者にもMLを使って原告団に反論や活動方針の理解を求める機会があったことから、被調査人の行為は、原告への不当な介入とは言えず、また崔氏の人格の否定や関係者への侮辱の意図を認めることができない。」ゆえに「被調査人の一連の行為をもって弁護士としての品位を失うべき非行と評価することはできない。」と断じている。

 これは、驚くべき主張です。綱紀委員会第一部会は、被調査人の言動が弁護士として必ずしも適切とは言えないことを認めつつも(「決定書」の表現では、「いささか不穏当な内容であることは否定し得ないものの」)、訴訟遂行への強い思いがあって、その言動は、「被調査人なりに訴訟の会を脱原発の目的で足並みを揃えさせようとしてなされた」いわば善意の意図によるもので、少々不適切であったとしても、訴訟の会への不当介入や崔氏への人格否定や事務局関係者への侮辱の「意図」はなかったのだから、被調査人のそれらの言動は弁護士として非行ではないと言っている。しかし、これが弁護士会綱紀委員会の第三者弁護士のセリフなのであろうか?

 「意図」が問題なのではなく、その「現実になされた言動」が問題なのであると私がここで指摘しなければならないことは極めて残念である。分かりやすく例えて言えば、「殺人(非行)」が行われ、その裁判が進行している時に、犯人には殺人の「意図」はなかったのだから、「殺人(非行)は行われなかった」というような弁論が成立しうるのだろうか、ということなのである。それは弁護士のセリフとして成り立つのでしょうか? 

 訴訟の会に対して、特定原告の追放を要求したり、事務局長の辞任を要求したり、弁護団による会計監査を要求したり、会計資料の弁護団への引き渡しを要求したり、不正会計があると触れ回ったり、会計の凍結を要求したり、等々することは、被調査人による訴訟の会への「不当介入とはいい得ない」?!?「なぜなら、被調査人には不当介入の意図はなかったのだから」!というような理屈が成り立つのだろうか?
 我々懲戒請求者は、被調査人の「意図」を問題にしているのではなく、彼の「実際の言動」を問題にし、それは弁護士として懲戒に値すると主張しているのである。

 その理由3について。
 ここは基本的に前項(理由2)の繰り返しである。貴「決定書」は、被調査人が裁判への「一途の思いから懲戒請求者指摘の(前記の)言動を行なったものと認められるので、被調査人の一連の言動は弁護士職務基本規定に反するものと評価することはできないことは明らかである。」と言う。どうして「明らか」なのかは明らかではないが(私には逆のことが「明らか」であるとしか思えないが)、前項で述べたことと同じように、被調査人の前記の言動は、裁判遂行への同人の「一途の思い」からなされたものだから弁護士職務基本規定に反するものではないという「理屈」らしきものあるいは「断定」が繰り返されている。

 しかし、新しい論点として、私の目から見れば、もっと驚くべき陳述がここでなされている。すなわち、被調査人の考えが「崔氏や朴氏ら(事務局)の意向や方針と完全に一致することには自ずから限界があったと考えられ、かかる両者の認識・方針等の相違を背景にすると、被調査人の(前記)言動はやむを得ないことであったと認められる。」と述べているのである。

 前記2では、被調査人の善意の意図を「理由」にして、不当介入や人格否定、侮辱がそうではない(それらはなかった)と否定されていたのに、ここでは、さらに踏み込んで、その現実になされた「言動」が「やむを得ないものとして」積極的に是認されている。つまり、不当介入や人格否定や侮辱等々が弁護士職務基本規定に「反するものとは言えない」どころか、驚くべきことに、実際に「反するものではなく」、いやむしろ、正しいものとして正当化されているのである。原告として、私はこれには全く承服できないだけでなく、この陳述に心底、驚き、呆れるものである。ここでは、これまでの、被調査人の言動に対する綱紀委員会第一部会のメンバーの若干の批判的留保(「いささか不穏当」「品位に疑問を抱かせる」)も吹き飛んでしまったようである。

 もう一度言うが、私は驚き、呆れる他ない。弁護士として「不穏当」であろうが、「品位」に欠けようが、「それはやむをえないことなのである。なぜなら、彼は彼なりに一生懸命なのだから。」というわけだから。しかし、弁護士が(弁護士に限らず、誰であれ)引き受けた仕事を一生懸命に遂行しなければならないのは当然、言うまでもない。一生懸命であることは懲戒を免責される理由には全くならないのである。

 問題はその仕事の遂行ぶりなのである。弁護士の仕事のガイドラインを定めたものが弁護士職務基本規定であると私は考える。その規定の制定の精神と文言とに照らして、真摯に職務を遂行していると認定されなければ、当然、懲戒審査の対象となるはずである。もともとそのための規定なのであるから。その仕事の遂行における言動が「不穏当」であったり、「品位」に欠けていたりすれば、いくら主観的に一生懸命に仕事をしていたとしても、依頼人たる原告から不審の眼で見られることになるのであり、現に、被調査人は、我々17名にも及ぶ原告から、正式に書面で持って、膨大な証拠物件を添えて、懲戒を請求されたのである。「決定書」のここでの「理屈」づけは、弁護士職務基本規定の無効宣告(あるいは死亡宣告)に等しいと私には思われる。

 その理由4について。
 ここでは、我々の懲戒請求事由2(信頼関係の喪失)が取り上げられている。原告と訴訟代理人である被調査人との間に信頼関係が失われた時に、適切な措置を講ずべきだとする基本規定第43条を巡って、「決定書」は、「約半年間にわたってメールや書面で意見を出し合っていることから見て、被調査人にのみ適切な措置を取るべき義務があったとすることはできず、(崔氏ら3名の代理人)辞任前に話し合いをしなかったからといって、基本規定第43条違反とは言えない」と述べている。

 これなども、大変失礼ながら、官僚答弁あるいは詭弁の最たるものというべきであろう。弁護士職務基本規定は、弁護士のなすべき義務を規定しているのであって、原告のなすべきことを規定しているのではないことは改めて言う必要のないことである。原告や事務局側は本裁判を引き受けてくれる弁護士を探すのに大変苦労して(当時日本の弁護士で誰一人として原賠法憲法違反を訴える裁判を引き受けようとする人はいなかった)、ようやく手を上げてくれた被調査人が出現したことに大感激して、その後の同人との意見の相違や対立にもかかわらず、なんとか被調査人と協調できないかと考えて、必死にその道を模索したが(そのために、崔氏は被調査人の理不尽な要求に従って、事務局長を辞任したりまでもした)、同人は断固として妥協せず、結局メールなどでのやり取りに終わって、両者間での話し合いは一切なされなかった。

 被調査人には、紛議を解決すべく適切な措置を講じる義務を果たさなかった第43条違反だけでなく、そもそも、なぜ弁護士職務基本規定などというものが存在するのかについてのその根本精神に対する基本的理解が完全に欠けているとしか言いようがない。

 基本規定の根本精神は、釈迦に説法でお二人には申し訳ございませんが、私の理解するところをもう一度述べさせていただきますと、代理人・弁護士はその職務にあたっては、弁護士の信義を重んじ、誠実にその職務に励み、名誉と信用を重んじ、品位を高めて、依頼人たる原告と協調し、密接に協議し、その意思を重んじ、依頼人の権利と利益の実現に努めなければならない、というような趣旨のはずです。私よりも皆さん方の方がはるかによくご存知のはずのその根本精神に照らして、先にも述べましたが、被調査人の「弁護士にあるまじき信じ難い言動の数々」(その詳細は我々の懲戒請求書に詳しく十分な証拠物件を添えて詳述されている)は、あなた方の言われるように、真に「やむを得ない」ものとして、正当化されるのでしょうか? 「辞任前に話し合いをしなかったからといって、第43条違反とは言えない」などと字面だけの官僚的な紋切り答弁をして、「一件落着」になるとお考えなのでしょうか?

 その理由5について。
 ここでは懲戒請求事由3(委任契約書の欠如)が取り上げられる。「被調査人と原告らとの対立は委任契約書の未作成に起因するものとは認められないから、基本規定第30条(委任契約書の作成義務)違反をもって、本件について直ちに弁護士としての品位を失うべき非行とは言えない。」これも驚くべき「理由づけ」であるが、詳しい説明は一切ないので、このように断定する理論的根拠はわからない。

 両者の対立の原因が委任契約書の未作成とは直接関係していないことは明らかである。だからと言って、それが、第30条に違反していることが弁護士としての資格あるいは「品位」になんらの影響を及ぼすものではないという結論が導かれる理由になぜなるのかは不明である。本件が同条に規定する(委任契約書を交わさなくてよい)例外規定に当てはまらないことだけは「決定書」も認めている。

 私などから見れば、本裁判をめぐる対立云々の話とは全く無関係に、委任契約書の欠如は、それ自体として、独立して、弁護士として決定的な資格を問われ得る重大で深刻な問題であると思われるのだが、なぜか、「決定書」はそのように見ていない。
 「決定書」がここで言っていること(「基本規定第30条に違反しても弁護士としての非行ではない」)は、要するに、基本規定第30条などは無視して構わない、委任契約書などあってもなくてもどうということはないのだ、なかろうが、そんなことは非行でもなんでもない、ということのようである。あーあ。弁護士会がそういうのであれば、何のための職務「基本」規定なのか(委任契約書は弁護士職務の「基本」ではない?!?)、我々素人は言うべき言葉もない。懲戒請求者でなくとも、誰でもこれを聞けば、我が耳を疑うであろうと私は思う。

 その理由6について。
 ここでは我々の懲戒請求事由4(被調査人による裁判を受ける権利の侵害)が取り上げられる。
(1)   訴状作成について。
 ここでもまことに驚くべき主張が展開される。「訴状は弁護士が専門的知見に基づいて作成するものであるから、訴状の内容について当事者(原告)の了解を得て、裁判所に提出しなければならないとはいえない。」また「原告の人数が多数に及ぶ大規模原告団であり、原告一人一人から了解を得て、裁判所に提出するという手順を踏むことは困難であるから、訴状の記載内容について原告らの了解を要するものとはいえない。」

 私の考えでは、これは弁護士として決して許されない根本的な問題をはらむ認識であると言わねばならない。改めて言うまでもなく、裁判の主体は、原告であって、弁護士ではない。弁護士はあくまで代理人であって、依頼人たる原告がいて初めて裁判が成り立つのである。これが根本である。この根本認識を「決定書」は完全に欠いている。

 現実的問題として、法律素人の原告は専門家たる代理人弁護士に多くを委ね、依存する。実際の法廷を運用していくのは、事実上代理人弁護士であって、主体である依頼人原告は後景に退いている。しかし、本質的根本的には、弁護士は原告の代理人である、あるいは代理人に過ぎないのであって、裁判の主体たる原告本人そのものではない。そのことは、弁護士職務基本規定第21条(依頼者の正当な利益と権利の実現)、第22条(依頼者の意思の尊重)、第36条(事件処理の依頼者への報告及び依頼者との協議)において明確に文言化されている。

 現実に法廷では、原告ではなく、代理人弁護士が主となって活動するからといって、「決定書」の言うように、「訴状に原告らの意思を反映することも、了解を取り付けることも必要ではない」(弁護士が原告の意思や利益とは無関係に、原告との話し合いも一切せずに、原告の抗議の声にも耳を傾けないで、全く独立して、好き勝手に作成してよい)ということには決してなり得ない。確かに原告一人一人の意見を聞くことは大規模集団訴訟ではほとんど不可能であろう。そのために、原告団(訴訟の会)の代表としての事務局があり、MLがあり、訴訟の会の総会があり、臨時の原告団の集まりがあり、代理人との話し合いが行われるのであり、このような両者の密接で良好な協調関係の上に、代理人弁護士が中心となって作成した訴状に主体としての原告の利益や意思は十分に反映されているということになろう。

 しかし、本件の場合、残念ながら、そのような関係が構築されなかった。だからと言って、「原告の了解が必要ではない」というのは、弁護士法や弁護士職務基本規定の根本理念に反するものであり、基本規定第21条、第22条、第36条に違反すると断ぜねばならない。

 (2)辞任に関することについて。
 貴「決定書」は、被調査人の代理人辞任によって本人訴訟を余儀なくされた崔氏や朴氏らは「訴訟における主張・立証活動のために特別の精神的苦痛や経済的負担を強いられたと認めることはできない」と言う。これは根拠なき断定であり、単純な事実誤認であろう。なぜなら、素人にとって、自ら弁護士の役割を演ずることがどれだけの巨大な負担となるかを理解していない発言だからである。
 更に言えば、この発言は、弁護士としての自殺行為に等しい自爆発言であろう。なぜなら、もし、素人による本人訴訟が何らの「特別な精神的苦痛や経済的負担」など不要な仕事であるなら、代理人弁護士などそもそも不要だからである。

 裁判を提起するには、莫大な費用と時間とエネルギーと精神的経済的物理的その他の負担がかかる。とりわけ、「訴訟における主張・立証活動」のためには専門的知見と能力が要求される。それがゆえに、もっぱら法律専門家としての高度な専門的訓練を受けた弁護士の知見と能力が必要とされるのである。その作業を専門家なしに原告が自ら担うことは、専門家には想像もできない巨大な負担を法律素人の原告当人に要求することであり、その負担の重さはすでに法律専門家になった綱紀委員会第一部会の皆さん方にはおそらく想像も理解もできないことなのであろうか。皆さん方は、苦しかったであろう(と私は勝手に想像するが)受験勉強時代のご苦労などもうお忘れになったのだろうか?

 (3)進行協議への原告の不出頭の要請について。
 これが、原告の権利の侵害であるとは認められないと「決定書」は言う。これもまた、私に言わせれば、前記「(1)訴状作成について」で述べた、裁判の主体に関する「決定書」の根本的な認識の誤りを示すものである。実務的には、裁判所との進行協議が多くの場合、代理人だけで(原告抜きで)行われている実情は理解できないわけではないけれども、本件のような場合(つまり、原告と代理人との間で深刻な意見の対立があるような場合)、原告からの出席要請があれば、代理人としては、それを拒否(否定)すべきものでは決してないであろう。そのときどういう態度を取るかで、裁判の主体である依頼人との関係における代理人弁護士の役割をどこまで本質的に認識できているかどうかが問われる試金石になるのである。この決定的な試験において、被調査人は落第したと言わなければならず、被調査人による原告の基本的権利のこの侵害(進行協議への原告の出席権の否定)を容認した「決定書」の本質的認識の誤謬もまた明白であると私は考える。

 以上、貴「決定書」が掲げている「懲戒しない」理由の6つについて、「決定書」に沿って逐一私の見解を述べてきましたが、最後に私は、集団訴訟において、代理人が恣意的に特定の原告を選り出して、訴訟から追い出すなどという行為は、弁護士の権力の乱用であって、決して許されるものではないということを申し述べておきます。

 この意味において、私は、被調査人が訴訟の会との対立に鑑みて、本裁判全体の代理人を辞任して、本裁判から身を引かないで(なぜなら、選り出された特定原告とは、原告団の中心人物たる訴訟の会の前・現事務局長だったから)、そうする代わりに、逆に、自己の気に食わない特定の原告(訴訟の会事務局長)を選り出して、その者たちだけの代理人を辞任することによって、訴訟の会を分断させ、自己の支配下に置こうとしたことが弁護士として決して許されない行為であると考えます。依頼人たる原告(訴訟の会)と代理人たる弁護士の「意見が異なる」ことになるならば、当然のこととして、弁護士は、訴訟そのものの代理人を辞任する以外にないでしょう。原告を選別して、その中の特定の原告だけの代理人を辞任する(それ以外の原告の代理人は辞任しない)方策など、正常な人間(普通の弁護士)なら考えもつかないことだと私は思います。

 仮に、これまで検討してきた懲戒請求事由の他のすべての項目を考えないとしても、この1点だけでも、被調査人は、なんらかの懲戒に値する(その量刑は弁護士会が決められることです)「非行」を犯していると私は考えます。「決定書」のごとき被調査人の「無罪放免」など論外で、ありえないことでしょう。

 もう1点、最後に、本懲戒請求の提訴以後に生じた新たな事態を指摘して、 本「決定書」の決定がいかに間違っているかをそれが雄弁に証明してくれていると申し上げたく存じます。それは、被調査人が崔氏、朴氏の両人を損害賠償請求裁判に逆に訴えた事件です。

 弁護士が依頼人たる原告を意見が異なったからといって裁判に訴えて損害賠償を請求するなど、そもそも「ありえない」出来事だと思いますが、その請求理由の一つに被調査人は本件懲戒請求者17名の中に両名が入っていることを理由に挙げているとのことです。もし、弁護士会への所属弁護士の懲戒請求が当該弁護士による懲戒請求者への損害賠償請求の反訴の正当な理由になるのだとしたら、弁護士会の懲戒請求制度そのものが無意味なものと化すでしょう。無意味どころか、懲戒請求をしようと思う一般市民を逆に処罰するとんでもない制度となってしまいます。被調査人は、このような「非道な」行いを平気で行う人間のようですが(これはスラップ裁判と特徴付けるのが最も的確です)、貴弁護士会綱紀委員会第一部会は、この被調査人の行為もまた、両者の対立に鑑みて「やむを得ない」(従って、弁護士職務基本規定に反する「非行」ではなく、「懲戒に値しない」)ものであると認定されるのでしょうか? 

 失礼ながら、仲間を庇いだてするギルド体質が、貴弁護士会が所属弁護士への懲戒請求制度を制定した時におそらく想像すらしていなかったであろう「とんでもない結果」をもたらした一つの典型例をここに見る思いが私には致しますと末尾に付記させていただきます。

 短く書くつもりでしたが、思いがけず、少し長くなってしまいました。

 お読みいただき、ありがとうございました。


2017年9月20日水曜日

本人訴訟団が挑戦したことー司法界での裁判を進めるための暗黙のルールを打破する

原発メーカー訴訟控訴審、1回で結審。12月8日(金)11時に判決。
映画「三度目の殺人」を彷彿させてくれます。司法界は司法というルールの上で裁判所も原告・被告の弁護士もグル(映画の主張です)。

私は本人訴訟団(選定当事者)として原発メーカー訴訟弁護団の後、どうして控訴をしたのかということで陳述をしました。
私たちは原賠法によってメーカーの責任は問われないという法律があっても、事故を起こした原発メーカーに一切責任がないというのは、製造物責任法を知る者として、それはおかしい、たとえメーカーに責任はないという法律があっても、おかしいことはおこしいと世界中にアピールして4000人の原告を集めました。

弁護団がスライドを使って法廷でながながと、原発が産業としてなりたたなくなっているとか一般的な状況を法廷でいくら主張しても、すべての事故の責任は原発運営会社(東電)がとる、おかねがいくら必要になっても政府が支援するという堅牢な構造をくずすことはできません。

問題は、国が定めた基準内の人たちだけが被害者としての保障を受けるという制度です。その放射能の濃度の範囲内の住民だけが(一部、精神障害も認定されています)政府及び東電の保障の対象になるという、その仕組みに私たちは挑戦したのです。福島を含め福島以外の海外の市民も、今回のフクシマ事故による「不安」と「恐怖」による精神的障害を訴える原告(市民)の訴えを、自分たちが恣意的に作った基準によって、その基準外の人達を玄関払いする司法界の基準そのものをひっくり返す論理が必要でした。

だから地裁判決は一切私たちの主張に答えず、理由や根拠を示さず棄却しました。応えると自分たちの設定した基準外の人にまで保障をしなければならず、そういう議論を避けるためです。一方、原告弁護団もその基準にはふれていません。その恣意的に設定された基準は当然のものとして、暗黙の前提の上で、裁判所、被告・原告の弁護士の間で裁判が展開されたのです。それはある意味、出来レースというものです。その基準が裁判をする前提になっていたのです。従って法廷では被告と原告の間で専門家だけで通じる(小賢しい)法律論及び、原告弁護団からはその基準を問うことなく原発の危険性、メーカーの問題点を指摘する膨大な資料を提示しながらの一般論だけでした。

本人訴訟団としての最大の悔いは、原告弁護団とこの司法界で当然視されている基準をどう突破するのかという話しあいができなかったことです。本人訴訟団はその裁判の判定の基準そのものを問う主張をしました。12月の判決で敗訴しても、その問題提起ができたということでよしとすべきなのかもしれません。私たちは専門家だけがわかる法廷での法律論よりも、私たちの怒りの根拠を明示しました。それは原発の製造、運営、輸出そのものが違憲であるという明確なものです。原発は武器に転用されるのであり、それ自体憲法の平和主義に反しているというものです。

私たちはどうして原告弁護団が原賠法の原発運営会社の責任集中という制度を法律的に問題にしながら、原発の製造、運営、輸出が憲法違反であるという主張をしなかったのか理解に苦しみます。

原告弁護団は最高裁まで闘うつもりのようです。私たちはその闘いを支持します。しかし私たち本人訴訟団が主張してきた、原発の製造、運営、輸出そのものが平和主義に反する違憲であること、裁判の判断基準を国家が恣意的に決めた基準にするというあり方そのものを乗り越える視点を提示してくほしいものです(相当因果関係論VS事実的因果関係論)。(参考までに:損害責任の範囲を限定するための法理論が「相当因果関係論」であり、「事実的因果関係論」は「恐怖感とか不安感なるものは、・・・それが単なる主観的危惧や懸念にとどまらず、近い将来、現実に生命、身体及び健康が害される蓋然性が高く、その危険が客観的に予測されることにより健康などに対する不安に脅かされるという場合には、その不安の気持ちは、もはや社会通念上甘受すべき限度を超えるものというべきであり、人の内心の静穏な感情を害されない利益を侵害されたものとして、損害賠償の対象となるのが相当である」とする東京地裁判決(平成9.4.23)が参考になる。澤野義一「原発メーカーの原発製造等と輸出の「公序良俗」違反性」5-6頁、8

それと法廷闘争と並行して海外を含めての法廷外闘争が不可避であることをしっかりと認識し、本人訴訟団とも率直に話し合うようになっていただきたいものです。がんばってください。エールを送ります。

2017年9月18日月曜日

原発メーカーの控訴理由書の公開

明日9月19日、原発メーカー訴訟の東京高裁における第一回目の口頭弁論がもたれます。地裁においては敗訴しましたが、私たちの主張した準備書面さえ読まれていない判決であったので、私たちは控訴しました。下記のものがその控訴理由書です。高裁の口頭弁論を明日に控え、私たちの主張を公開します。

島弁護団は自分たちの主張に従わない原告は委任契約を切り、自分たちに従うものだけを弁護するというありえない行動にでたので、裁判の主体は原告であり、弁護団は原告の法的代理人であるという主張を貫徹するため、私たち40名の原告は弁護士を立てない本人訴訟というかたちで裁判闘争をしてきました。原発そのものが違憲であるという私たちの主張を日本の司法制度が認めるのかどうか、わかりませんが、私たちたちはこの間、法律のことは素人であっても全力を尽くして司法の場で私たちの思いの法的根拠を示してきました。多くの方にお読みいただきたいと願います。


           控 訴 理 由 書
平成28912

東京高等裁判所  御中

事件名:原発メーカー訴訟賠償請求事件
平成28年7月13日判決言渡
受付票:平成28年(ワ ネ)1677号


控訴人 (原告 選定当事者兼選定者)  崔勝久   朴鐘碩   佐藤和之
弓場彬人   伊藤明彦   木村公一   李大洙   土田久美子   松澤信明

被控訴人(被告) ゼネラル・エレクトリック・ジャパン・ホールデイング株式会社

被控訴人(被告) 株式会社東芝

被控訴人(被告) 株式会社日立製作所

訴訟物の価額    900万円
 上記当事者間の東京地方裁判所 平成26年(ワ)第2146号、第5824号 原発メーカー損害訴訟事件について平成28年7月13日に言い渡された判決は不服であるから、以下の控訴理由書を提出する。

目次
第1 事案の概要
第2 第1審判決の認定判断の概要
第3 第1審判決の審理不尽の内容
第4 結論

第1 事案の概要
当原発メーカー損害賠償請求事件は、2011311日の東日本大震災を契機として発生した、東京電力福島第一原子力発電所における原発事故を経験・目撃しこれまでの安全神話が完全に崩壊したことによって被った、福島だけでなく、全世界の市民の「不安」と「恐怖」に基づく精神的損害に対する原発メーカー3社の賠償責任を求めるものである。

 日本の原発政策は国策民営であり、地震大国日本に54基もの原発を設置・運営する方針をだした日本政府と、具体的に福島原発事故を起こした当事者である原子力事業者としての東京電力(以下、「東電」とする。)の責任は免れ得ないが、全世界39ケ国から約4千人の精神的損害を訴える各国の市民は原発メーカー訴訟の会(以下、「訴訟の会」)に参加して、原発の計画、設計、製造、メンテナンスに関わってきた原発メーカーの責任を問うために、島昭宏弁護士をはじめとした弁護士を代理人として選定して、原発メーカーを被告とする裁判をはじめた。

 しかしながら、訴状を共有する同じ原告でありながら「原告唯野ら」(原告弁護団)と「選定当事者ら」(本人訴訟団)とが別々に法廷に出席し準備書面をするようになったのは、裁判を進めるなかで、弁護団の共同代表である島昭宏弁護士の弁護士職務基本規程と弁護士法に反する言動によって「訴訟の会」の内部で混乱が生じ、「訴訟の会」は分裂を余儀なくされたからに他ならない。

 そのために弁護団から委任契約解除された「訴訟の会」の現・前事務局長の朴鐘碩と崔勝久は、原告弁護団を解任した原告と本人訴訟団を組織して、選定当事者9名を含む選定者40名によって、原告弁護団の訴状とは異なる新たな主張をし第6準備書面まで提出した。その経緯については以下、参照( 崔勝久「81日、本日、原発メーカー訴訟の島弁護団長を告訴しました!」 http://oklos-che.blogspot.jp/2016/08/81.html)。

 「選定当事者ら」すなわち本人訴訟団は、原発の製造・稼働及び輸出そのものの違憲性を訴え、原発メーカー(東芝等)と原発事業者(東京電力)の原発ビジネス契約は「公序良俗」(民法90)に反する反社会的で違法・無効な法律行為であり、原子力損害賠償法(以下、「原賠法」とする。)は法令違憲であることを独自の視点から主張した。そして原発事故を原因とする具体的な出来事に起因する精神的損害は、これまでの原発関係裁判で論議された「精神的人格権」とは異なり、原発事故に伴って生ずる不安と恐怖()という固有の精神的損害であり、その損害に対して被告原発メーカーは賠償する責任があるとの主張を展開した。

 そのために原判決は原告を「原告唯野ら」と「選定当事者」とに分け、別々に判決理由を述べている。原判決の「主文」は、「2 原告唯野らのその余の請求及び選定当事者らの請求をいずれも棄却する。」とし、「事実及び理由」の「第3 当裁判所の判断」の最後の7で、「原告唯野らのその余の請求及び選定当事者らの請求はいずれも理由がないから、これを棄却することし(原文のまま)、主文のとおり判決する。」と結んでいる。

 なお、第4準備書面において「選定当事者ら」は、原告弁護団の主張との違いを明確にするために東京地方裁判所に対して分離裁判を求め、かつ311福島原発事故の実態とその責任の解明の為に原発ビジネス契約締結の当事者である被告への釈明権の行使をお願いしたが、そのことは審理の中でも判決の中でも言及されていないし、実際にどのように釈明権の行使を実行したのかは不明である。

第2 第1審判決の認定判断の概要
東京地裁における本件の最大の争点は、被告の原発メーカーは原賠法3条で明記された原子力事業者の「責任集中制」によって、いかなる事故であっても免責されるのかという点と、「選定当事者ら」の主張する精神的損害に対して原賠法は適用されるのかということであった。被告3社は一貫して原賠法の適応と被告メーカーの免責を主張して早期の棄却を求めた。

2016323日、東京地裁の裁判長は審理の途中で弁論終結を宣言し、同年7月13日に「原告唯野ら」と「選定当事者ら」の請求を棄却したが、原判決では「選定当事者ら」の主張に応えておらず、判決の理由及び根拠を十分に示していない。

1 原子力損害賠償法で定義する「原子力損害」と精神的損害について
結論的にいえば、「選定当事者ら」の請求のうち、原判決が判決理由で検討したのは、わずか原子力損害の範囲と因果関係に関する法解釈のみであり(3031)、「選定当事者ら」(本人訴訟団)の請求の前提をなす理由や論点を検討することなく結論を出している。

原判決は「選定当事者ら」が第4準備書面で主張した精神的損害の根幹をなす部分には触れず、「選定当事者ら」が「本件原発事故により選定者が被った精神的損害」として第1準備書面「第6 精神的損害について」で掲げた、「不安」と「恐怖」に起因する精神的損害の具体例をそのまま番号をつけず記すのみである。原判決は原告の立場に立ってその「不安」と「恐怖」による精神的損害の由来と実態に思いを寄せる記述を一切言及していない。

原発メーカー訴訟の「選定当事者ら」が原発事故によって可視化された様々な具体的なできごとに起因する「不安」と「恐怖」によって被った精神的損害に対して求めている「損害賠償は、従来の「精神的人格権」侵害による精神的損害とは区別され、人々に対する「不安」と「恐怖」の精神的損害(「平穏生活権」侵害による精神的損害)として容認されるべきである。」(第4準備書面3頁)
第1準備書面「第6 精神的損害について」(619頁参照)
1)原発メーカーの不良品(原子炉)事故によるいわれなき精神的苦痛と
失ったものに対する受忍しがたい喪失感
2)安全神話が嘘であったことが判明したことに対する「不安」と「恐怖」
3)汚染水の流出がとまらず太平洋に流れ出ている現実に対する「不安」
と「恐怖」
4)低線量放射線による内部被曝の問題に対する「不安」と「恐怖」
5)使用済み核燃料など放射線廃棄物の問題に対する「不安」と「恐怖」
6)原発の再度の過酷事故による被曝に対する「不安」と「恐怖」
7)原発の存在そのものが人類、自然にとって害悪であることについての
「不安」と「恐怖」
8)原発の存在が潜在的核兵器保有として国家の安全保障政策に組み込まれ
ていることについての「不安」と「恐怖」
) 原発から排出される放射能に対する「不安」と「恐怖」
10) 原発輸出によって海外で原発被害を与えるのではないかという「不安」
「恐怖」

「選定当事者ら」はそもそも原子力損害賠償法で定義する「原子力損害」(「核燃料物質の原子核分裂の過程の作用又は核燃料物質等の放射線の作用若しくは毒性的作用(これらを摂取し、又は吸引することにより人体に中毒及びその続発性を及ぼすものをいう。)により生じた損害」に精神的損害は含まれていないと主張している。

それに対して原判決は、「「核燃料物質の原子核分裂の過程の作用又は核燃料物質等の放射線の作用若しくは毒性的作用」によって生じたといえる損害とは、上記作用を原因として発生した損害、すなわち、身体的損害、精神的損害又は財産的損害にかかわらず、上記作用と因果関係のある全ての損害と解するべきである。」との見解を述べている。しかしその理由及び根拠は述べられておらず、「この点、選定当事者らは、原子力損害の定義上、精神的損害が含まれず、精神的損害の賠償請求は民法及び製造物責任によるべきであるとした上、民法及び製造物責任法による賠償責任においては、「相当因果関係」によって限定されることなく、「事実的因果関係」のある損害全てについての賠償が認められるべきである旨主張するが、独自の見解であって採用することはできない」と結論し、「選定当事者ら」の主張を棄却した。

2 原判決が検討していない三つの論点
「選定当事者ら」の請求理由・主張のうち、原判決が全く検討していない論点として大きくは以下の3点である。
①原発の製造・稼働・輸出そのものが違憲である。
②違憲である原発の製造・稼働・輸出とその設計・補修・過酷事故対策等を内容とする原発メーカー(東芝等)と原発事業者(東京電力)の原発ビジネス契約は「公序良俗」(民法90)に反し、反社会的で違法・無効な法律行為である。
③3・11福島事故に起因する被害はあまりに大きく長期間その影響が続くことが明らかになった原発の運用を前提にする原賠法は違憲立法である。

第3 第1審判決の審理不尽の内容
1 原発の製造・稼働・輸出そのものが違憲との主張に対する検討がなされていない
 「原発の運用は、憲法の三大原理である基本的人権尊重主義、非武装平和主義、・・国民主権(・・地方自治尊重主義)に抵触ないし違反する」(澤野義一『脱原発と平和の憲法理論』2332頁(法律文化社 2015)。従って原発の製造・運用に根拠を与えている原子力基本法や原子力損害賠償法は違憲立法であると、「選定当事者ら」は主張する。

人権侵害の違憲性
(あ)国内的には原発事故に対する東京電力経営者の業務上過失致死 傷罪
  「2015730日、東京電力の幹部が業務上過失致死傷罪で強制起訴されるべきことを議決したことで、東京地裁で刑事裁判が開かれる。」澤野義一「原発メーカーの原発製造等と輸出の「公序良俗」違反性―憲法との慣例でー」4頁、戊第19号証
(い)原発事故による種々の個別的人権侵害
  「憲法13条は生命・自由・幸福追求権などを保障しているが、甚
 大な原発事故や放射線被ばくは、人権の根本である生命権そのものを
 奪う。環境破壊という点では、幸福追求権(及び憲法25条の生存権)
で根拠づけられる環境権を侵害する。」
(う)恐怖と欠乏からの自由と自由の侵害
 憲法前文の「恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利」は
今日的には、戦争や経済恐慌に限定しないで、安全・安心を求める権
利として、広く適用されるべきである。福島原発事故後にみられる津波や地震による自然災害を体験した現在、様々な人権侵害を引き起こす原発の運用は、恐怖と欠乏からの自由を侵害すると解することができる。
 福島のような原発事故が起きると、地方自治体が根本的に破壊され、
存続できなくなることが想定される。それは、住民自治と団体自治の
理念を含む住民主義ないしは地域民主主義の侵害・崩壊を意味する。
       ()平等原則の侵害
     原発は都市と地方という地域差別の構造の上に成り立っており、原発事故が起きた場合は、原発立地周辺住民は他の地域住民よりも、様々な人権侵害を被る。これは、平等権ないし平等原則(憲法14条)
    の侵害といえる。
(お)将来世代の住民の人権侵害
  通常問題にされる人権侵害や公害に比べると、放射能を排出する原発事故による被害は、広範囲において、また将来にわたって住民の権利を侵害し続ける。従って、原発の運用は、現在生きている住民の権利のみならず将来世代の住民の権利も保障している憲法11条、97条に抵触する。
(か)国際的には原発稼働等の国際犯罪
原発は国際人道法違反、あるいは国際環境を破壊するということで
原発の存在や稼働は国際犯罪該当性がある。
  「原発稼働等の国際犯罪性については、核抑止力として原発を保 持することが核兵器使用=核戦争の計画と準備行為であり・・国際人道法違反(平和や人道の罪)に当たるという見解(注:田中利幸「核兵器と原子力発電の犯罪性」(Peace Philosophy Center,
や、原発事故等が環境破壊や将来世代の権利を侵害することを考慮し、「原子炉の存続と拡散は、人道法、国際法、環境法、及び国際的な持続可能な発展の権利に関する法のすべての原則に反する」という見解(注:CG・ウィーラマントリー「日本においての原子炉の惨劇)『日本反核国際法律家協会に関する文書』2011314日付。」等がある(澤野義一、同上)。

原発稼働等による多様な人権侵害について人格権の一つとしての平穏生活権の侵害
     憲法の前文は日本国民だけを対象にしたものではない。「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」。と記されている。「恐怖と欠乏から免れて平和のうちに生存する権利」は全世界の人が享受すべき平和的生存権であるが、原発及び放射能の被害から免れることを「恐怖と欠乏からの自由」として主張する権利は、311事故による精神的損害を被った全世界すべての人が訴えることができるものである。

    以下、戊第19号証、澤野義一「原発メーカーの原発製造等と輸出の「公序良俗」違反性―憲法との関連でー」(56頁)より引用する。
 (あ)「人格権」について
    「原発の稼働や事故による人権侵害としては、人々の生命、生存、身体、精神、居住・移動、職業・労働、財産、子供の教育等に関する憲法上保障される様々な人権の複合的侵害が考えられる。当該人権の複合性は、原発稼働の差止めを容認した大飯原発・福井地裁判決(平成26.5.21)によれば、人の生命ないし生存を基礎(憲法13条、25条を根拠)とする「個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益」の「総体」であり、「人格権」(筆者の命名では「生命権的人格権」)と呼ばれるものに相当する。」

「その他に、原発稼働等によって様々な人権侵害が引き続き継続し、さらに深刻化したり、あるいは、生命・身体・健康等に関する具体的権利侵害が未発生であるが将来人権侵害を引き起こすのではないかといった、いわば「精神的な不安や恐怖感を内容とする人権」侵害も考えられる。このような「精神的な不安や恐怖感を内容とする人権」に関しては、原発稼働等による恐怖と欠乏からの自由(憲法の前文、13[幸福追求権]、平和的生存権とも重なる権利で、ノー・ニュークス権という呼称もある)や、将来世代の国民の権利(憲法11条、97) 等を論拠に正当性が容認できよう。」

(い)「平穏生活権」について
1997年の「使用済み核燃料・放射性廃棄物管理安全条約」において、「将来世代に不安を負わせるような行動を避けることに努める」という規定が導入されていることも注目されてよい。この人権は、従来の表現の自由や公害等に関する裁判で認められている「精神的人格権」(上記の「人格権」の範疇に入り、福島原発事故で直接被害を受けた周辺住民には賠償が認められている権利)とは異なる「平穏生活権」であり、被害者の内心の感情にかかわる利益を保護法益とする新たな権利に属する。

「「平穏生活権」は、これを提唱する論者によれば、「廃棄物処理場や遺伝子組み換え施設などから人体に有害な汚染水や病原体が流出し生命・身体に被害を受けるのではないかという深刻な恐れ、危惧による人格権侵害のような場合であり、その被侵害利益は身体的人格権(身体権)に接続(直結)した権利」、あるいは、「生命・身体に対する侵害の危険から直接引き起こされる危険感、不安感によって精神的平穏や平穏な生活を侵害されない権利」である。そして、「単なる不安感や危惧感ではなく、生命・身体に対する侵害の危険が、一般通常人を基準として深刻な危険感や不安感となって精神的平穏や生活」が侵害されていると評価される場合には、「人格権の一つとしての平穏生活権の侵害」に対して差止め請求や損害賠償請求が認められることになる。」

判例としても、このような「平穏生活権」が成立する余地を認めるものがみられる(東京地裁(平成9.4.23)、控訴理由書「参考にすべき判例」11頁参照)
なお、この「平穏生活権」は「事実的因果関係論」の視点により、注目され広く承認されるようになっている(淡路剛久「「包括的生活利益」の侵害と損害」『福島原発事故 賠償の研究』17頁以下、日本評論社、2015)。

原発稼働等の憲法9条侵害について
(あ)日本の原発政策は、核兵器の不拡散を謳いながら原発を推進する NPT(核不拡散条約)体制の中の大国の意向に同調するものであり、違憲の疑いがある。

(い)原発は潜在的核保有で憲法9条の禁ずる「戦力」に該当
「我が国の安全保障に資することを目的とする」とする原子力基本
の改正が、2012615日に可決された。原発の存続や稼働が潜在的な核抑止力になっているという判断である。従って、それは憲法九条が禁じているところの「戦力」に該当し、且つ外国に対する武力による威嚇手段になる。「戦力」の英文はwar potentialであり、戦争に転用(核武装)する内在的な力を持ったものは「戦力」とみなされる。これまでは自衛隊が憲法の戦力に該当するかどうかの議論しかされなかったが、戦力というものはそんな狭い範囲のものでなく、戦争に転用できるものは全て入る。

(う)原発稼働は平和学研究者ガルトゥングが提案した「構造的暴力」の視点から捉える必要がある。
人々の平和的生存権を侵害し、被告ら原発メーカーが国内的に違法な「公序良俗」に反する原発ビジネスを政府の原子力協定締結に基づき海外に展開することは、日本国内外の人々に「不安」と「恐怖」という精神的損害を与え、「平和を愛する諸国民の公正と信義の信頼」原則や平和憲法も反し許されない(憲法の前文、9 条、98 条等)ことであることにも留意すべきである。
「原発が戦争の原因となる社会の差別や貧困等(いわゆる「差別構造」「構造的暴力」)のうえに存在し、戦争目的に使用される可能性もあり(他国からのテロ攻撃等も含む)、人々の平和的生存権侵害につながる恐れがあるということである。
このような観点から、中米コスタリカ共和国の最高裁憲法法廷は、日本の平和憲法と類似するコスタリカの平和憲法(非武装永世中立や環境権保障)に照らし、原発を容認する政令は違憲無効と判示している(2008)。なお、核保有と原発(稼働)を憲法で禁じている国としては、永世中立国オーストリアがある。」澤野義一、戊第19号証6)

2 原発の製造・稼働及び輸出を目的にしたビジネス契約は民法の「公序良俗」に反する
 契約は自由であるがその契約内容が反社会的な公序良俗に違反する内容を持っている場合には契約は無効になる(民法90条)。

   原発ビジネス契約は反社会的で「公序良俗」に反して違法・無効
無効になる場合について、いくつかの理由が一般的には示されている。例えば反社会的な契約、犯罪に該当するような契約、人身売買契約、憲法の権利を奪うような契約、等の契約は無効になる。原発ビジネスに当てはめると、犯罪行為に該当する。原発を稼働させるのは犯罪性があり、公序良俗に違反する可能性がある。

原発の設計・製造・販売・稼働・補修・過酷事故対策等を内容とする原発メーカー(東芝等)と原発事業者(東京電力)の原発ビジネス契約は客観的にみれば、原発事故を引き起こす潜在的危険性(「許される危険性」とされる自動車事故等とは質的に異なる「許されない危険性」)を内包する、「公序良俗」(民法90)に反する反社会的で違法・無効な法律行為である。

東電と被告原発メーカーは、原発事故が発生する予見可能性の下で事故発生の結果回避義務を怠ったことの責任は免れず(過失責任) 、それにより原発被害者に対し多様な権利ないし法的保護を受ける利益を侵害したこと、すなわち経済的、身体的、生活的、精神的損害等を与えたこと(違法性)について事実上の因果関係(不法行為成立の要件事実)がある。 

原発ビジネス契約の「公序良俗」違反性の決め手になるのは、原発稼働等の多様な人権侵害と憲法9条侵害という違憲論である。また、「公序良俗」違反性の内容をなす別の違憲的要因として、原発メーカーの原発輸出の問題もある(詳細は澤野義一、戊第19号証、「原発メーカーの原発製造等と輸出の「公序良俗」違反性」前掲4頁以下参照)。これらの論点についても、原判決が何ら検討していないのは判決理由の重大な不備である。

  原発メーカーの損害賠償は免責されてはならない
このように東電と原発メーカー両者の不法行為に対して、その法的効果としての損害賠償についても認められるべきである。損害責任の範囲を限定する「相当因果関係論」により、原発メーカーを免責すべきではない。従来の公害とは比べものにならない重大な被害をもたらす危険性のある原発ビジネスには重い損害回避義務が伴うところ、原発メーカーの賠償を免責することは、原発ビジネスで得られてきたこれまでの多額の利益に比し、あまりにも不公平で法的正義に反する。

原発メーカーについては、民法の不法行為に関する709(一般的規定)719(共同不法行為規定)が適用される。東電に対しては原賠法により、一定の賠償責任が認められているが、「原発メーカー」に関しては、原賠法の適用を排除して、民法上の不法行為責任だけでなく、製造物責任法上の欠陥(危険)責任もまた問われるべきである。

3 原賠法の法令違憲及び原賠法に依拠した損害賠償請求をしない根拠について
原発の製造・運用を前提にする原賠法は制定当初の立法目的と異なり、3・11福島事故以来可視化されてきた様々な事柄によって現在では違憲立法と判断される。それは「立法事実変遷論」として解釈される。

原判決は、「原告唯野ら」が主張する原賠法の責任集中制の問題とノー・ニュークス権等の人権侵害を理由とした原賠法の法令違憲論について、それを否認しているが、「選定当事者ら」の原賠法の法令違憲論については検討されていない。

「選定当事者ら」の主張は、原賠法がノー・ニュークス権等を侵害するから違憲というのではなく、まずは、原発の製造・稼働及び輸出そのもの、そして原賠法の前提にある原子力基本法が違憲立法だという認識に立っている。これについては、原発違憲論と立法事実変遷論を参照(澤野義一『脱原発と平和の憲法理論』法律文化社、2333)

また仮に原賠法が違憲立法でないという判断であっても、下記の四つの理由で原賠法の正統性が揺らいでおり、原発事故に起因する「不安」と「恐怖」に基づく精神的損害については原賠法を適用するべきであるという根拠は絶対的でない、と「選定当事者ら」は主張する。

1)  精神的損害は原賠法で定義された「原子力損害」に該当せず
2)原賠法の「責任集中」と「無限責任」の原則は支援機構法によって実質破綻
  政府の10兆円に及ぶ東電支援はこの支援機構を介して行われたが、 同法では、「相互扶助の仕組み」の導入により、東京電力以外の原子力事業者も政府から東電に渡った支援金の返済を担っている。これは明らかに原賠法で謳われた、事故を起こした原子力事業者の「責任集中」と「無限責任」の原則と矛盾している。すなわち、原賠法の「責任集中制度」は、支援機構法の「相互扶助の仕組み」によって実質的に破綻させられている。

原賠法における「原子力損害」の定義には精神的損害が含まれていないことは明らかである。丙第6号証の星野英一著書
は、原子力損害のもっとも典型的なものとして、「放射能の照射に起因する損害に限るのが妥当」と書かれている。しかし「わが原賠法には、特別な規定がないから、民法の一般原則によることになり、相当因果関係の範囲に属する限り」、原賠法に「含まれることになる」と判断している。すなわち、精神的損害は相当因果関係の範囲に属する限り原賠法に属するということになるが、その相当因果関係の基準が何かは被告弁護団の主張においても、原判決においても明示されていない。

機構法付則6条2項は、「早期に、事故原因の検証、賠償実施の状況、経済金融情勢等を踏まえ、東京電力と政府・他の電 力会社との間の負担の在り方、東京電力の株主その他の利害関係者の負担の在り方を含め、法律の施行状況についての検討を加え、その結果に基づき必要な措置を講じる」と規定しており、「機構法によれば原発メーカーにも責任を問い得る」
(戊第11号証、熊本一規教授論文6頁、『電力改革と脱原発』)。

3)日米原子力協定の88年度改定で、アメリカの「免責条項」は削除
  2011527日、衆院経済産業委員会において、日本共産党の吉井英勝議員が、福島第一原発事故に伴うゼネラル・エレクトリック(GE)社の製造物責任を追及した。日米原子力協定の88年度改定で、それまで明記されていた「免責」条項が削除され、GE社に製造物責任があるという点について、政府参考人である外務省の武藤義哉官房審議官は「現在の日米原子力協定では旧協定の免責規定は継続されていない」との答弁を行った。

協定上は米GE社の責任を問うことが可能であるという大変重要な見解を示している(戊第12号証、吉井英勝『国会の警告無視で福島原発事故』(7479頁 東洋書店 2015)。
さらに現協定(16条)では、米国の濃縮ウラン燃料を30年間購入数することが義務付けられている。この協定が維持される限り、日本政府は2018年まで脱原発はできないようになっている。

4)原賠法制定時の事故試算の隠蔽・改竄
  原賠法は原子力基本法第一条の民主・自主・公開の原則にもかかわらず、原発事故の被害想定(大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害額に関する試算)の数字が当時の国家予算の2倍以上と巨額であったため、政府は試算の全容を隠ぺいして、改竄を加えた前書き部分のみ国会資料として提供しそれを基に審議制定されたもので、原賠法の正当性に疑問があると言わざるをえない(戊第13号証、NNNドキュメント2015823日 「2つの“マル秘”と再稼働 国はなぜ原発事故試算隠したか」。

4 原発事故に伴う「不安」や「恐怖(感)」を内容とする精神的損害の賠償について
以上のことを踏まえての、原告「選定当事者ら」の請求している、原発事故に起因する精神的損害に対する原発メーカーの賠償責任についての主張である。

 ① 原発事故に伴って生ずる「不安」と「恐怖()」という固有の精神的損害精神的損害
ここでいう精神的損害は、経済や生活的被害に伴う精神的損害(ここでは通常的損害と称しておく)とは区別される、原発事故に伴って生ずる「不安」と「恐怖()」という固有の精神的損害である。原子力損害の範囲を決める原賠審(文部科学省の下につくられた原子力損害賠償紛争審査会)の「中間指針」では、前者の損害は賠償されるとしても、後者の損害は賠償対象ではない。この点は、被告や原判決も同様の見解である。原判決は、原賠法の原子力損害について、「身体的損害、精神的損害又は財産的損害にかかわらず、上記作用[核燃料物質等の放射線の作用や毒性的作用]と関係のある全ての損害と解すべきである」としながらも、原賠法の適用を前提に、「選定当事者ら」の請求している精神的損害は賠償対象から除外している(判決、31)

その理由は不明であるが、原判決は、原子力損害の範囲については、被告の立場や「中間指針」を政策的に考慮し、損害範囲を制限しようとする従来の「相当因果関係論」に依拠しており、原発事故と被害・損害に関する事実的な因果関係が認められる限り、広く精神的損害も保護し、賠償対象となりうると解する「事実的因果関係論」を「選定当事者ら」の「独自の見解」だとして断じて退けている。

  参考にすべき判例
この点、「選定当事者ら」の見解では、原賠法の原子力損害については、そもそも「不安感」を内容とする精神的損害は含まれていないと認識しているから、仮に原賠法が有効だとしても、当該精神的損害については原賠法の「責任集中制」による原発メーカーの免責は適応されず、民法の不法行為の賠償対象となる。その際には、上記の「事実的因果関係論」に立脚すれば、「恐怖」と「不安感」を内容とする精神的損害も賠償対象となる。この法解釈は、原賠法の法令違憲により同法の適用を排除して民法の不法行為法を適用する法解釈と、結論は同じになる。

「未知の危険」であっても「起きる可能性が合理的に予測される危険」(「合理的に心配できる」危険)については、具体的予見可能性がなくとも過失責任が問えるという「危惧感(不安感)説」では、「不安感」というものは重視され(澤野義一『脱原発と平和の憲法理論』[前掲]45頁以下)、不法行為の成立要件の一要素である「法律上保護される利益」に当たると同時に、その侵害は損害賠償の対象となりうる。これは特に原発事故のような、将来にわたり被害・損害が継続的に発生することが経験則的に推測しうる場合について妥当すると思われる。

この点については、厚生省の添加物指定緩和による健康権侵害に関する事件にかかわって、「恐怖感とか不安感なるものは、・・・それが単なる主観的危惧や懸念にとどまらず、近い将来、現実に生命、身体及び健康が害される蓋然性が高く、その危険が客観的に予測されることにより健康などに対する不安に脅かされるという場合には、その不安の気持ちは、もはや社会通念上甘受すべき限度を超えるものというべきであり、人の内心の静穏な感情を害されない利益を侵害されたものとして、損害賠償の対象となるのが相当である」とする東京地裁判決(平成9.4.23)が参考になる(澤野義一「原発メーカーの原発製造等と輸出の「公序良俗」違反性」5-6頁、8)

5 「相当因果関係論」と「事実的因果関係論」について
  絶対的ではない「相当因果関係論」
「相当因果関係論」は公害が起きる前に提唱されていた説で、事件の直近に起きた現実的被害のみに限定して、その責任、行為と結果の因果関係を認めるという非常に狭い範囲の議論、しかも民法でいう債務不履行、最低関係者の間の不法行為という非常に限定された範囲の責任を問題にする。

それに対して、近くの被害ではなく、間接的な被害、或いは将来起こるかも知れない蓋然性が非常に高く被害発生の恐れがある場合の因果関係、予防原則、予防を含めた因果関係で責任を認めるべきであるとする「事実的因果関係論」が最近有力である。

被告らは精神的損害を「相当因果関係論」によって「原子力損害」とみなすが、相当因果関係の定義は明確でなく、「損害賠償の範囲について判例・学説を長らく支配してきた相当因果関係概念が多義的かつ不明確であって、理論的にも実務的にも解釈論の道具として用を成さない」(曽根威彦「不法行為法における相当因果関係論の帰趨」早稲 田大学法学 84(3)[2009.3.20 発行)とされている「相当因果関係論」を絶対化している。

  「事実的因果関係論」について


 事故と被害を直接的・直近的・一時的なもの(被害事実)に限定する「相当因果関係論」ではなく、経験則的に推測しうる間接的・将来発生的・継続的なもの(被害事実)にまで拡張する必要性がある原子力公害時代には「事実的因果関係論」が適切である。また、この場合の損害賠償請求については、被害が継続的で、将来的に発生するような「晩発性損害」に当たるから、被害の全体が明確化するまでは消滅時効は成立しない。従って、東芝の代理人の製造物責任法の時効に対する主張は妥当ではない。

なお、原判決は、「選定当事者ら」の「事実的因果関係論」を「独自の見解」として退けているが、現在の不法行為に関する学説では、判例で使用されている「相当因果関係論」は「絶対的な通説」ではなくなっており(大村敦志『新基本民 法不法行為編』有斐閣、66)、逆に「事実的因果関係論」が「多数説」とみられている(潮見佳男『不法行為法Ⅰ[2]』信山社、359)

その理由は、契約当事者間の債務不履行から生ずる予見可能な通常的損害を想定し(民法416)、損害責任の範囲を限定するための法理論が「相当因果関係論」であるから、不特定多数の人々に対し、通常的損害をはるかに超える損害を与える公害等の不法行為において「相当因果関係論」を使用すること(民法416条の709条への準用)は、被害者の損害の認定される範囲を狭めることになり不適切だということである。

それに異を唱えたのが「事実的因果関係論」で、この説によれば、「不安感」を内容とする精神的損害であっても、それが被害の実態をなすものであれば損害対象とりなりうる(この「損害事実論」については、淡路剛久ほか編『福島原発事故賠償の研究』日本評論社、19頁以下参照)

6 精神的損害の賠償請求は民法と製造物責任法による
 以下、「精神的損害の賠償請求は民法と製造物責任法による」という主張を第4準備書面から引用する。

  原告の主張する精神的損害は、被告3社が原子力事業者東電(以下、東電)と民法の「公序良俗」違反である原発製造及び運用のビジネス契約を締結したため、民法と PL法違反によって引き起こされた原発事故を契機として顕在化した具体的な出来事に起因している。
原告は、通常運転における、たとえ政府が設定した基準値以下の低線
量の放射能であっても、ガンなどの発症の危険性を本件事故によって深く認識している(戊第7号証、崔「韓国の原発裁判で勝利したイ・ジンソプさんの資料」参照)。

また原告は、原発の運転に必然的に付随する放射性廃棄物が内外の市
民及びこれから生まれてくる子どもたちと自然に与える影響に心を痛め、原発が国家安全保障の位置付けのもと核兵器に活用されることに「不安」と「恐怖」を抱く。
それゆえ、原告は上記①②③④等の「不安」と「恐怖」による精神的損
害を訴えたのである。その精神的損害は、本人の肉体を蝕み、家庭生活や社会生活における様々な問題を生み出し、福島地域だけでなく日本国内から国境を超え、世代を継ぎ広がるものである。精神的損害は恣意的に定められた放射線量の一定の基準によって判断されるべきものではない。

原告の精神的損害と被告メーカーらによって引き起こされた原発事故を
契機として顕在化した具体的な出来事との因果関係は明らかであり、被告は原告への賠償責任がある。原発の製造、運用がなければ原告の放射能に対する「不安」と「恐怖」による精神的損害は起こり得なかったということが因果関係の存在を証する。

第4 結論
  東京地方裁判所の担当裁判長は「選定当事者ら」が第5、6の準備書面の提出後、被告弁護団らの反論のないところで、突然、結審を宣告した。結局、第4準備書面以降の「選定当事者ら」の主張に関して被告弁護団側は反論をせず、原判決においても検討した形跡がまったく見られず、棄却したその理由、根拠を述べていない。また、「選定当事者ら」が裁判長に要請した」、被告原発メーカーが過酷事故に際して負うべき契約内容等の公開を求める釈明権の行使」も曖昧なままになっている。
「選定当事者ら」の主張で原判決が全く検討していない点は以下の3点である。
①原発の製造・稼働及び輸出そのものが違憲である。
②違憲である原発の製造・稼働・輸出とその設計・補修・過酷事故対策等を内容とする原発メーカー(東芝等)と原発事業者(東京電力)の原発ビジネス契約は「公序良俗」(民法90)に反し、反社会的な違法・無効な法律行為である。
③反社会的な原発の存在を前提にする原賠法は違憲立法であり、たとえ違憲立法でなくとも、原賠法でなく、民法の不法行為法及び製造物責任法に基づき被告・原発メーカーらは「選定当事者ら」の主張する「不安」と「恐怖」による精神的損害に対する損害賠償を支払うべきである。

これらの点に関しては、恣意的に設定された基準で判断される「相当因果関係
論」ではなく、間接的な被害、或いは将来起こるかも知れない蓋然性が非常に
高く被害発生の恐れがある場合の因果関係、予防原則、予防を含めた因果関係
で責任を認めるべきであるとする「事実的因果関係論」による判断の検討が要
請される。

以上が控訴理由の主因であるが、それ以外にも、損害賠償請求に関して福島原
発周辺以外に居住する内外の人々の原告適格者の範囲や、被告東芝が主張した
消滅時効の論点についても、原判決は何ら検討せずに請求を棄却しているが、
ここにも判決理由の不備がある。「選定当事者ら」は、以上の理由により、原
判決の取り消しを求める次第である。